くつひもむすべない

一次二次問わずたまに18禁の小説を載せるブログ

On Holy Night

 駅の改札口を抜けると、雪が降っていた。
顔を上げると鉛を溶かしたような灰色の空が広がっている。絵具で塗りつぶされたかのような不自然な色だった。虚空に向かって息を吐けば、白煙のように昇って消えていく。
改札口から押し寄せる人の波に乗って、バス停に向かって歩き始めた。随分遅くなってしまった。
スマートフォンの液晶には"10:16"を表示していた。この時間なら何とか終バスには間に合うだろう。
駅ビルの横を歩くと目につくのは赤や緑、金を基調としたオーナメントだった。今日は12月25日。クリスマスだ。
日付を見なくとも今日がクリスマスであることは自明だった。
街の至る所からクリスマスソングや第九が流れ、クリスマスツリーの電飾が目にとまり、手を繋いで歩く男女と嫌というほどすれ違うからだった。
クリスマスと言えば恋人と過ごす若者は多いのだろうが、自分とは無関係の話だった。それに聖夜だというのにアルバイト三昧である。
他のバイト仲間はクリスマスということで休みを希望している者が多く居た。さしずめ自分はその補闕 である。聖なる夜にカップルたちが睦み合っている中、独り身は寂しく仕事に没頭するしかないのだ。
同じくシフトが入っていた仲間から飲みにいかないか誘われたがやんわりと断った。何となくそういう気分にはなれなかったのだ。

緩慢と揺れ動く人の列に肩を窄めて歩く。クリスマスはキリストの降誕祭だ。つまり誕生を祝う祭りなのだ。こうして見ると死者たちが神の裁きを受ける為に天国への門に向かっているように見えてくる。ならばカップルは地獄に堕ちるのだろうか。
そんなことを思って、出そうになった乾いた笑いを押し殺す。何で自分がこんなに僻んでいるのか不思議に思う。世の男女が何をしていようが関係ない。関係ないはずだ。
停留所の前に止まってスマートフォンを出すと、メッセージアプリを表示させた。
そして何を思ったのか通話画面を開く。画面の上部にはかつて付き合っていた女の名前があった。
彼女とは一か月前に別れた。一年近く付き合ったが自分にしてはまあまあ続いた方だろう。
どっちかと言うと恋愛に関しては淡泊だ。誰かを本気で好きになったことがないし、自分から積極的にアプローチした相手もいない。色々な女と付き合ってきたが、どの女も本気で入れ込むことはなく付き合っては別れるの繰り返しだった。
だが今回の女は違った。大学で同じゼミの仲間で、初めは向こうから付き合って欲しいと告白された。
最初は毎度の如く漠然と日々を過ごしていたが、次第に彼女に情が湧くようになった。優しくて、献身的で、一緒に居て安心できた。今まで付き合ってきた女とは全く違う感情を覚えた。
ずっと一緒に居られると思っていた。だが、それは不可能だった。突然別れを切り出された。「他に好きな人ができた」と言った。その時の彼女の表情はとても申し訳なさそうに笑っていた。ピントのずれた視界の中で彼女が「ごめんね」と言って去っていくのを眺めることしかできなかった。
長いようで短い一年だった。あの時別れていなかったら自分も、すれ違うカップルたちのように笑っていたのだろうか。
幸いブロックはされていないので連絡を取ろうと思えば取れる。電話も着信拒否されていなければ繋がるだろう。だがそんな勇気はなかった。今さら彼女を追うことなど、自分には許されていないのだ。

バスは意外と人が乗っていた。聖夜といえども、仕事をしている人間は多い。
トーク欄を見つめて溜め息を吐く。気軽に誘える友人は少なくないが、この時間だ。恋人がいる者も居れば、既に友人や家族と過ごしている者も居るだろう。
こんな時間に連絡をしたところで相手に迷惑になるだけだろう。手持ち無沙汰になってスマートフォンをポケットにしまう。何をすることもなく窓の外をただ眺めた。
バスを降りてアパートまで歩く。最寄りの停留所からアパートまでは歩いて5分ほどだ。朝、急いでいる時は短く感じられるこの道もなんだか今はとても長い道のりのようだった。
人通りはほとんどない。ところどころ電灯が道路を照らしている。眩しい白い光が、一人さびしく歩いている自分を嘲っているような気さえする。
重い足取りで階段を上り、部屋の前に着くと鞄から鍵を取りだす。
鍵穴に入れて右に回して扉を開けると靴を脱ぐこともなく、玄関の地板に倒れる。疲れた。今日はさっさと寝たい。でも風呂に入らないといけない。あぁめんどくさ。
立ちあがって靴を脱ごうとした時、ポケットの中から音がした。スマートフォンの通知を表示させると、"鬼丸国綱"の名前があった。
内容は絵文字もスタンプもなく、ただ"帰ったか?"の五文字。何て簡素なんだろうか。あいつらしいと言えばらしいが。思わず笑みが零れる。
きっとあいつのことだから、クリスマスに彼女の居ない独り身である幼馴染を心配してのことだろう。一か月前の出来事から傷心の自分に慰めのつもりか気持ち悪いくらい優しくしていたので尚更だろう。
すぐさま返信をする。
"帰った。お前もクリスマスソロか?笑"
それにしてもこんな時間にわざわざ連絡を寄越してくるとは律儀なやつである。確かあいつも今は恋人が居なかったはずだ。まぁ居たらこんな時間に連絡なんてしている暇はないだろう。
再びトーク欄を表示させる。なんとなく下にスクロールさせると、"大包平"という文字が目に留まる。
大包平、鬼丸と同じく幼い頃からの付き合いであるこの男は昔から己を悩ませる種でもあった。
一つ年下でありながら既に小学生高学年で背を抜かされてしまった。富裕層の出身であってか、若干箱入りなところがあってどんなこともそつなくこなすハイスペック男だ。強情でうるさい奴だがどことなく品があって女にもモテる。出会って数年ほどはまだ素直で可愛げがあったが、背を抜かされたことが恐らく始まりだったのだろう。今となっては顔を見るのも億劫な男だ。
普段は連絡を取ることなど、ほとんどない。だが、今ばかりは誰かと話したいと思った。
別にこいつじゃなくても良い。鬼丸と話せばそれで済む話だ。いつもなら絶対に話したいだなんて思わないだろう。
それなのに、考えていることに比例するように指が動く。トーク画面を表示させてメッセージを打ち込む。
"あいたい"



自分は何を書いているんだ?"あいたい"?どうして?自分が?こいつに?
男にあいたい、だなんて普通は言ったりしない。自分はどうしてしまったのだろうか。クリスマスだからと言って気分が高揚しているのだろうか。
メッセージを咄嗟に消そうとして、指が送信ボタンにずれる。
押してしまった。しまった。何をしているのか。こんなもの見られたら堪ったもんじゃない。
削除しようとして、音が鳴る。画面の下側にメッセージが表示される。
「はや…!?」
レスポンスの速さに思わず声が出てしまう。こんなに直ぐ返信するなんて、こいつは何をしているのか。暇なのだろうか。
"会いに行く"

何だと?会いに行く?誰に?どこに?どうして?
たった五文字のメッセージに混乱する。言葉の意味は理解できるのに意図が理解できなくて、どうしたらいいか分からない。何故この男はこうなのだろうか。昔からそうだ。この男に対して何かを求めるとこの男は常に全力で応えようとする。この男は自分に出来ないことをさも当然かのようにやってのける。
どうしてただの幼馴染の為に、こんな時間に会いに行こうと思えるのか。
その思考が理解できないし、その男に結局甘えてしまう自分の浅ましさも嫌になる。
やっぱり気に入らない。誰かの為に必死になれるこの男のまっすぐさが。
再び音がして画面に表示される。鬼丸からだ。
"うるさい。寂しいなら、今からお前ん家に行ってやろうか"
さっきと変らず顔文字もスタンプもない。これだけだと冷たい感じがするが、幸い鬼丸はこういうスタンスであることを熟知しているため何とも思わない。寧ろ、気を遣っているつもりなのだろう。
こんな時鬼丸の言葉の意図は簡単に理解できるのに。なぜあの男は分からないのだろうか?普段連絡をとらないから?それとも、あの男の本当のことを今まで理解しようとしてこなかったから?
考えてもわからなかった。

数十分してチャイムが鳴った。年季の入ったボロアパートなのでもちろんインターホンなどない。
恐らく大包平だろう。ああ本当に来てしまったのか。
扉の前に立ち、ドアスコープを覗く。見知った赤色の尖った髪。やはりあいつだ
どんな顔をすれば良いのか分からなくてドアノブに手が伸びなかった。開口一番、なんて言えばいい?
「よく来たな」…ってなんだよ。「会いたかった」…恋人かよ。「来てくれてありがとう」…これも何か違う。
ああ、やっぱり会わせる顔がない。これも"あいたい"だなんて送ってしまった自分のせいだ。数十分前の自分のミスを憎んだ。
童子切!居るんだろう!」
「声がでかいよ!近所迷惑!」
夜だと言うのに周りを憚らない声に思わず扉を開けてしまう。こんな時間にでかい声を上げたらお隣さんから苦情が来るかもしれない。流石にそれは勘弁願いたい。
「居るんじゃないか」
「……あー、うん…まぁ」
目の前に息を切らして立つ男。コートを一枚着ただけの出で立ちに慌てて出てきたのがすぐに分かった。
何だか突然申しわけなく感じてますます居心地が悪くなる。
「なぁ…何で来たんだよ?俺確かにあんなの送ったけどさ…」
「?あんなのとは?」
「だから……"あいたい"って送っただろ!あっあれは別に本心とかじゃなくて、なぜか勝手に打ってしまったというか…消すつもりだったけど間違って送っただけだ!」
弁明するつもりが、これじゃあますます墓穴を掘っているような気がしてならない。
何を言っているのだろうか。やはりクリスマスだから気分が高揚しているのだろうか。酒は飲んでないから酔っているわけではない。
「俺に会いたかったのか?」
「だから違うって…!俺、なんであんなの送ったんだろう…お前なんかに会いたいとかおかしくなったのかな…お前はお前で"会いに行く"とか返すし…何考えてるんだよ…本当お前のことが分からない…」
「会いたいと思ったこと以外に理由なんてないだろう。お前は俺に会いたかったし、俺もお前に会いたかった。それだけだ」
平然とそんなことを言う。よく言えるな。"俺もお前に会いたかった"だと?何だそれは。
頭の中では反論しようとするのに、言葉が喉に引っかかって出てこない。
「…お前、恋人と別れたと聞いたが」
「何で知ってるんだよ!?」
「人の噂というものは簡単に広まるぞ。お前のことだから、別れた女に未練があるから俺に会いたいと思ったんじゃないのか」
まるでお前の考えてることなど全てお見通しだと言わんばかりに話してくる。面と向かって言われたその言葉に、胸の奥に押し込んでいた感情の堤が決壊して氾濫しているかのような感覚に陥った。
「…俺、好きだったんだ」
「…………」
「初めてこんなに誰かを愛おしく思ったんだ。今まで付き合ってきた女は何とも思わなかったのに。ずっと一緒に居たいって…でも彼女はそうは思ってなかった。やっぱり俺が悪いのかな…今までの彼女を大切にしてこなかったから、罰が当たったんだろうか…もう戻ろうと思っても前には戻れないって…」
一ヶ月間、胸の奥で鍵をかけて閉じ込めた感情を出してしまった。誰にも曝してはいけないと思った。だけど、何故かあろうことかこの男に言ってしまった。こんなみっともない姿を、気に入らない幼馴染に見せてしまった。

だけど情けないとか、悔しいとか思う以上に彼女への想いが止まらなかった。改めて自分はあの時の恋を失ってしまったのだと痛感した。二度とあの愛しい日々は帰ってこないのだと感じる。
そう思うと眼頭が熱くなって咄嗟に俯いた。涙が出そうだった。20を越えて泣くなんてみっともないが、涙は引っ込みそうにもない。こんなところを見られるなんて、この男はなんて思うだろうか。彼女に未練があったことを指摘しただけで、目の前で泣かれるなんてたまったものじゃないだろう。
本当に馬鹿だ。こんな姿見せるなんて。クリスマスだから今日はちょっと情緒不安定になってるらしい。全部クリスマスのせいだ。

童子切…こっちを向け」
頭上から静かに声がする。だが、顔を上げる気なんて起きなくて俯いたまま無視をした。
数秒のあと、影が動いて背中に腕が回され一瞬のうちに体温が上がる。
顔は無理やり上を向かされ目の前の男の肩に収まった。身体と身体が密着して身動きがとれない。力が強い。振り解けない。あったかい。これどういう状況?
色んな感情が頭の中で飛び交う。えっなにこれ?
「何どさくさに紛れて抱き締めてんの…」
「慰めだ。悲しい時は誰かの体温が恋しくなるだろう」
そうかもしれないが、何でこいつに抱擁されなければいけないのだろうか。今すぐ離れたいのに、力が入らない。振り解こうと思えば振り解けるかもしれない。でも、振り解けない、振り解きたくない。
普段だったら顔ぶん殴ってやるぐらいするが、今だけはこの体温を手放したくなかった。
体格差があるせいか、抱き合っている、というよりは包まれている、という表現の方が的確なんじゃないかと思う。屋外だが、急いで来たからか心なしか温かく、思わず安心してしまう心地だった。暫くはこのままでいたい。この、昏くて優しい抱擁をもう少しだけ味わって居ようと思った。

 


「あ、」
「どうした?」
「鬼丸に返信するの忘れてた…」
「怒ってるんじゃないか」
「あぁ…だろうなぁ…そういや、鬼丸もここに来ようか言ってたんだよな。でも…お前居るしな」
「別に呼んでもいいんじゃないか?」
「そうだな…コンビニで酒でも買ってくるか」
「それが良いだろう」
「…あ、」
「今度は何だ」
大包平………メリークリスマス」
「今更だな。…メリークリスマス、童子切