大包平四周年記念話
「あれから四年も経ったのか」
鶯丸が感慨深そうに言う。まるで大層なことかのような口ぶりだたが、驚丸は刀剣男士として顕現して五年以上の月日が流れており大包平よりも長くこの本丸にい る。しかも刀剣である彼らにとって四、五年など些末な歳月である。
風が吹き荒ぶ庭先を障子越しに眺めながら鶯丸は茶を啜る。冬猫のように半纏を着た背中を丸めて炬燵の中でもそもそと動かした。その隣で座っていた大包平はそれまで黙っていたが、 脚を控えめに蹴り飛ばされたことによって眉を探めて声のない抗議を上げる。大して悪びれもなさそうに「すまん」と言う同胞に少々不満げになりながらも静かに口を開いた。
「四年あっという間だったか」
大包平にしては珍しく面映ゆそうにつぶやく。それを見た鷲丸は面白いものを見つけたかのように笑う。
「主に言わなくていいのか?一昨年はずいぶん張り切っていたが」
「お前はよく覚えているものだな」
「あんな面白いこと忘れるわけがないだろう」
飄々とした様子で揺れる草色の髪に大包平はわずかに瞋恚の念が湧き上がりそう になったが、ひとにらみして「主のことは後でいい」と言うだけでそのことに突っかかることはなかった。
「自分で言っていたわりにはあまり嬉しそうではないのだな」
「嬉しくないわけではない。ただ…」
大包平にしては歯切れの悪い言い方に鶯丸は少々不思議に思いながらも次の言葉を待つ。しかし返答がないので助けてやるかとおおよそ大包平が言いたいであろう言葉を代弁した。
「まだ奴が来ていないから素直に喜べんのだな」
「………………」
「まあ四年経っても未だに来ないとなれば流石に寂しくはなるだろうな」
「別に寂しいわけではない。憶測で物を言うな」
「俺の言葉はいつでも真理を突いているが」
外郭をなぞるような遠回しな表現は御免だが、核心を捉えるような直接的な表現も言い様によっては気に入らなかった。言ってしまえば、鷲丸の言葉ではどんな表現でも気に入らないということであるが。
「お前にしてはやけに弱気だなあ、大包平」
「だから違うと言っているだろう。俺はただ、あいつはもっと早く来ると思っていただけだ」
大包平は “彼"含める天下五剣に対して対抗心を燃やしている。特に"彼"に対して一層対抗心が強くなり、彼に関することには敏感なようだった。 それらもすべて己が白眉の刀であるという自負から来るものだが、同時に嫉妬心も等しく あり(本人は頑なに認めないが)もいや悟気の類ではないかと思うはどである 普段はほとんど口に出すことはないものの、彼が来ることをこの本丸で尤も 待ち望んでいると言っても過言ではない。だからこそ今この本丸に居ないことを 口惜しく思ってるのだと、鷲丸はそう思った。
いつもは真っ直ぐ伸びている背中も心なしか丸まっているように見える。煌々とした深紅の髪だけはいつも通りの体相だ。
「俺たちはただ待つことしかできないが、その代わり奴が来た時には笑顔で出迎えてやればいいさ」
「…言われなくても俺は最初からそのつもりだ」
「いや、大包平の場合速攻で喧嘩吹っかけるのが洗礼だったな」
せっかく大包平を慮るようなことを言ったのに次には一言居士でしかいられない鶯丸に速攻で 「人間きの悪いことを言うな!それではまるで俺が無作法者 のようではないか!」と異議を唱えるが、事実天下五剣の四振りには全員挑みに行っているので無作法者までは行かなくとも本当にしでかしそうだとは思っていた。
「今日はせっかく節目の日なのだからな。これまでのことを語らいながら言祝ぐのも悪くはないだろう」
「何だ突然。お前らしくないことを言うな」
「俺らしくないか?せっかく本人が楽しみにしていた日を祝ってやりたいと思ってな」
鶯丸は盆から取った蜜柑の皮を剥きながら悠然と笑う。
「今日は月の美しい夜になるだろう ち晩酌でもどうだ。月を見ながら祝酒というのも良いものだ」
「などと言いながら俺の祝いに託けて酒を飲みたいだけじゃなかろうな」
大包平の言葉に若干図星を突かれたように萱丸は眉を曲げた。大包平はこう言った勘の鋭さは人一倍強い。
「厨から焼酎をせしめなければいいのだろう?」
「そういう話ではない」
鶯丸を諌めながらも大包平は密かに晩酌を楽しみにするのだった。大包平は五年目の冬を迎えようとしていた。そして、いつ来るのかもわからない者をいつまでも待ち続ける。
耽溺
一
今朝からずっと気分が落ち着かないままでいた。
正直言うと”今朝”からではなくすでに”昨日”から今日のことで気もそぞろだった。
書架で本の整理をしている間も受付で貸出や返却の業務をしている間もやがて来る今日のことが頭から離れなかった。
今日は日曜。図書館は通常通り開館しているが和泉はこの日のために希望を出して休暇をとっていた。現在時刻十四時二十分。彼が来るまであと四十分ある。午前は自室で過ごしていたものの落ち着かず、いつも過ごしている図書館で時間を潰そうかと思ったがやはり変わらず昼食もほとんど胃に入らずこの時刻まで悶々とするはめとなった。
同僚の司書からは休みであるにも関わらずやってきた和泉に対してよほど図書館が好きなのだと笑われたが、敷地内のどこよりも落ち着ける場所である此処なら人心地つけるかと思って来たものの、そんなこともなく読んでいる小説の内容もまともに頭に入ってこない。
もうすぐやって来る彼———もとい”カイ”と会うのは約三ヶ月ぶりだった。カイはこの療養所に去年の12月に入所した。入所といっても短期間でほんの二ヶ月と少し居たくらいだった。入所した理由は幼い時からずっとやっているゴルフで怪我をしたことが原因でゴルフが出来なくなってしまい心を病んだからだという。
和泉は元々大学生だったが人間関係に悩み休学して叔父の紹介で療養所内の図書館で司書として働かせてもらっている。カイとは図書館に本を借りに来たことで出会った。
植物や茸の本を大量に借りるので変わった人だという印象があったが、暫くしてカイと図書館以外でも話すようになり次第に親しくなっていった。カイは半分異国の血が混ざっている。だからなのか長身で体格が良い。顔立ちも端正でどこかエキゾチックに感じる。カイの顔で最も特筆すべきなのはその双眸だった。大きいフォギーブルーの瞳は和泉にとってものすごく神秘的なものに見えた。日本人にはない色というものがあったが、それを差し引いても和泉を惹きつけるものがありカイにその双眸で見つめられるたび奇妙な感覚に陥った。顔立ちと目が相俟ってどことなくショーペンハウアーに似ているなと思っていた。
カイはどこか異質な雰囲気をまとっている。植物や茸の本を大量に借りたこともそうだが、今まで和泉が出会ってきた人間にはない風情がある。話し方や所作から品の良さが滲み出ていてそれで博識だ。話すネタに事欠くことがないし一緒に居て飽きることはないし落ち着く。カイは和泉にとって刺激でもあり変わり映えのなかった日々に潤いを与えてくれる存在だった。
カイの療養期間が終わって療養所を出てからは手紙と電話で連絡を取り合っていた。カイも大学生である上、遠方に住んでいるので気軽に会いに行くことも不可能だった。三ヶ月経って漸く会うことが出来るがこの三ヶ月が一年くらいあったんじゃないかと思うほどとても長く感じた。和泉とカイの関係は一言では説明し難いものだった。和泉はカイに対して特別な感情を抱いている。だが、その特別な感情が恋であるかは未だに分かっていなかった。なぜ分かっていないかは恐らく己の生い立ちのせいだと思っていた。和泉の身体は紛れもなく”男”のものだ。
しかし、自分が”男”であるか”女”であるかということには決めかねていた。
和泉の父は厳格だった。考え方が古臭く男は”男らしく”、女は”女らしく”という固定観念に拘っていた。その上和泉は三兄弟の末弟であったが兄二人が父の教育通りに育ったため、兄二人と全く考えの異なる和泉を快く思っていないようだった。物心ついた頃から可愛らしい物が大好きだった。中学生の頃には興味本位で初めて母親の服を借りて女装をしたことがあった。後に女装したことを癇の強い父親に知られれば当然の如く、強い叱責が飛んで来た。腹に据えかねている父を必死に母が宥め賺していたのを覚えている。それ以来後難を恐れて女装をすることも可愛い物に興味を示すことを”家族の前では”しなくなった。
男子の制服を着るのも本当は好きではなかったが、父の目がある以上のっぴきならないことであった。
もちろんその欲求を抑えられるはずもなくひた隠しにするようになったが、父に叱責されてもなお女性的なものに対する憧れは増していった。
高校を卒業して大学に進学してから、一人暮らしをするようになった。家族の目がなくなり抑圧から解放された和泉は自分の好きなように、好きな格好をして生きることを決め大学では女性の格好をして通った。しかし、周りからの反応は決して良いものとは言えなかった。心が完全に”女性”であるトランスジェンダーならまだ理解を得られただろう。だが、和泉は性転換をして戸籍を”女性”に変えたいわけではない。周りから見れば和泉はただの”女装した男”であり奇異の目に晒されることになってしまった。
身体は男。可愛い物が好き。女性ものの服が好き。でも女性になりたいわけではない。しかし自分を”男”だと断言するには躊躇いがあった。
和泉はそんな思いに日々苦悩した。一見理解があり温かく受け入れてくれているような友人でさえ、心の底では自分を気味悪がっているのではないかと思い出すとその考えを払拭することが出来ず、最終的には周りの人間を信用することが不可能になってしまった。
普通ならば悩みがあれば家族を頼るものなのだろうが、和泉にとって家族は”気軽に己を開示することができる存在”ではなかった。家族にすら本当の自分を隠していた。母は父のように強く咎めてくるこそ無かったが和泉の嗜好に対して肯定的ではなかった。兄たちにも当然ながら父にもそんなことは口が滑っても言えることではなかった。
そのせいで結局勉学に身が入らず、休学さぜるを得なくなってしまった。そんな時唯一理解のあった叔父が斡旋してくれたこの療養所の図書館で療養も兼ねて働くことになった。
本を読むのが昔から好きだった和泉にとっては図書館は何より心を落ち着かせることが出来、他人とも最低限の会話のみで良い。物語の世界は現実の嫌なことを忘れさせてくれた。そしてこの療養所自体も郊外にあり都会の喧騒からは程遠い場所だ。緑に囲まれていて年中様々な花が咲いている。精神状態も大学に通っていた頃とは大違いで療養所を紹介してくれた叔父には本当に頭が上がらないのだった。
このような気質だからか今まで他人に恋愛感情を抱いた経験も無かった。ドラマや映画や小説などの創作物から恋愛がどういうものかは分かるものの、自身が体験したことがない故恋愛感情というものが分かりかねていた。だがカイと出会って、恋愛感情というものを理解できるんじゃないかと思った。カイは和泉に奇異の目を向けることなく他の人間と変わらず接した。和泉にとってはそれが堪らなく嬉しくありのままの自身を見てくれるカイに対して特別な感情を抱いた。離れている間は会いたいと強く願い、手紙に書かれている直筆の文字すら愛おしく思い、もうすぐ会えるとなれば胸が高鳴る。しかし世間ではこれを恋と呼ぶのだろうか。カイのことは大切だし、彼との関係をこれからも大切にしていきたいと思う。でも、恋人になりたい、性的な関係を結びたいと思う欲求が無かった。世間では恋愛感情を抱いた相手に対して性欲を抱くのが普通らしい。では、この感情は恋では無いのだろうか。自分がカイに対してそう想っているようにカイも自分のことを特別に想ってくれていると嬉しいと和泉は思う。気軽に会うことが叶わなくてもカイを想うことが許されるならそれで良いと思う。考えても自分が抱いている感情が恋愛感情なのかそうでないのか分からないのであった。
カイと直接会って本心を聞けば答えが出るのだろうか。わからない。でも兎に角和泉はカイに早く会いたかった。
二
時刻は十四時五十五分。伝えられた到着時刻まであと五分だ。
和泉は図書館を出て本館エントランスへ向かう。エントランスホールの壁は白いタイル張りとなっている内装は高級感があって耿然としている。和泉は玄関扉横に設置されている姿見の前に立った。髪の毛、顔、服を順番に確認していく。数日前に美容院で髪の毛を切ってパーマをかけたためゆるく巻いたセミロングを垂らしている。化粧は濃すぎずナチュラルに。服はクリーム色のシフォンワンピースに今日は風があって肌寒いので薄手のカーディガンを羽織っている。和泉はフェミニンな恰好をすることもあればマニッシュな恰好もするなど日によって違う。化粧をしない日もあれば髪をゆるく結ぶだけの日もある。といってもユニセックスというよりは女性寄りなのでレディースがほとんどである上にフェミニンな恰好をしている日の方が多い。それに今日は待ちに待ったカイと久しぶりに会える日なのだから彼の前では出来る限り可愛い自分を見せたいという気持ちが強かった。
暫く姿見を見つめていると車のエンジン音が聞こえてきた。和泉は駆け出したい気持ちを抑えてポーチに出る。MT車特有のマフラー音を出しながらダットサン17型セダンが近づいて来る。ポーチの前で停車すると男が体を屈めながら降りてきた。カイだ。三ヶ月前と変わっていないその風采に和泉は思わず笑みがこぼれた。カイは和泉に一瞥を与えると笑って見せた。
「久しぶり、和泉」
三ヶ月ぶりに聞いたカイの声にますます喜びがこみ上げてきてどうしようもなくなっていた。きっと今の自分は変な顔をしているだろうと恥ずかしくなって和泉は若干俯きながら答える。
「久しぶりってたった三ヶ月だよ」
声が上ずってしまいそうになるのを抑えて何とか返す。上目遣いにカイを見れば大きな瞳をますます見開いて言う。
「和泉が待ちあぐねてたのような顔してるからこう言ったほうが良いのかなってね」
カイの無邪気な笑みに和泉は何も返すことが出来なかった。顔に出さずに喜ぶ、というのは自分には無理そうだった。
三
客人専用の寝室にトランクケースを置いた後、和泉とカイは広間に行った。全面ガラス張りの窓から光が入って明るく、室内に何席か配置されたウォールナットのテーブルと椅子で寛ぎながら話せる。
「ここに来るまで時間かかったね」
「まぁね。10時過ぎに乗った列車が事故で四時間も遅延したんだ。こんなに時間かかるとは思わなかったよ」
「大変だったね」
カイは椅子に腰かけながらその大きな体躯を屈めた。テーブルに突っ伏したまま暫く黙っていた。やがて顔を上げて気だるげに和泉を見ながら返す。
「でも、迎えの車がなかなか良かったから許したよ。やっぱりクラシックカーは良いね。見た目が良かったら乗り心地なんて考えてなかったけど今日乗ったセダンはシフトもスムーズだしクラッチワークも良くて考えが変わったよ」
カイが先程の気だるげな様子とはうって変わって意気揚々とセダンについて感想を述べる。
「それにダットサンの17型セダンは車量が六百三十キロしかないのに最高出力が十六馬力もあるんだ。やっぱり日本車は性能が良いよ」
「そうなの?古い車だし乗り心地悪いと思ってた」
「俺もそう思ってたけど、MT車ってクラッチとシフトを操作しながらギアを選択するから
運転手の力量に頼るところ多いんだよ。操作は難しいけどカッコいいし運転し甲斐がありそうだし俺も欲しいよ」
カイは機知に富んでいてこういった蘊蓄などを披露する時は分野限らず饒舌になる。疲れていた様子だったのにあっという間にイキイキとしているカイに和泉は思わず微笑む。好きなことを語っている時のカイが和泉は大好きなのだ。カイは和泉を見て思い出したように話題を変える。
「和泉の方は変わりはない?」
「ないよ。前と同じように図書館業務に従事してるよ」
「変わってない割りに電話や手紙では話すこと尽きないよなぁ」
「毎日の何気ないこととかカイくんに知ってほしいからね。そういうカイくんは?」
「俺もそんなに変わったことはないけど。大学も特に変わりないし。あえて言うなら地元のゴルフサークルにたまに参加するようになったぐらいかな」
カイは幼い頃からゴルフをやっている。以前はプロを目指していたが怪我が原因でプロへの道は絶たれてしまった。心を病んだのもそれが原因なので療養中は極力ゴルフ関係のものに触れないようにしていた。話もしないようにしていたため、今になってもどう反応したら良いか和泉は困ってしまうのだった。
「久しぶりに庭歩かないか?」
返す言葉が見つからなかった和泉に気を遣ったのか、カイがそう提案した。
「え、いいよ。疲れてるでしょ?」
「別にこれくらいじゃ大して疲れないよ。列車の中でも寝たし。それに久しぶりに庭がどうなってるか見たいんだ」
カイは遠慮する和泉の手を引いて連れ出す。カイが療養中の時も手を繋いだことはあったが、三ヶ月ぶりということもあり不意打ちだったこともあり和泉の心拍数が高まった。それと同時にカイに余計な気を遣わせてしまったことに和泉は胸中で反省した。
四
外へ出ると強い日差しが照っていた。微風が吹いているせいか暑さはあまり感じない。和泉は日傘をさしてカイと並木道を歩き始めた。
中折れ帽を被ったカイが肩を並べる。もう手は繋いでいないものの和泉に歩幅を合わせている。ほんの何気ないことでもカイの優しさが感じられるようで和泉は言いようのない気持ちになる。
「花いろいろ咲いてるんだな」
花壇に植えられた花々を見ながらカイが呟いた。バラやクレマチス、ライラックなど季節によって様々な花が植えられる。和泉はよく職員が花の手入れをしているのを見る。職員たちのお陰で年中綺麗な花を見られているのだと思うと敬服せずには居られなかった。
この療養所の敷地内には図書館以外にも温室や撞球室、チャペルなどがある。小規模のシアターなんかもあって街に出なくても大体のことは済ませられることや、その上自然に囲まれているので療養するには本当にぴったりの場所だと改めて和泉は思った。
「あ、ユリだ」
和泉が他の花壇から離れたところに植えられてあった純白の大輪の花を見つけて近寄る。
「カサブランカだな」
和泉に続いて近寄って花を見たカイが言う。
「ユリとカサブランカって一緒じゃないの?」
「ユリはユリ科ユリ属全般の花の総称でカサブランカはユリ属の中の花の一つのことだよ」
カイに説明されて和泉は無知を晒してしまったと思って顔を紅潮させた。カイに学が無いと思われてしまったんじゃないかと気づいた和泉は返す言葉もなくカイの顔を見ることが出来なかった。折角本を読んで知識を吸収しているのにこういう時に発揮できないんじゃ意味ないなと思うばかりだった。
「ユリと言ったら聖母マリアだな」
突然の言葉に和泉は驚いてカイの顔を見た。
「どういうこと?」
「聖母マリアは処女でイエス・キリストを懐胎しただろう。ユリの花言葉は”純潔”。処女つまり純潔。な、繋がるだろ?」
和泉の脳内にレオナルド・ダ・ヴィンチ、ボッティチェッリ、グイド・レーニのそれぞれが描いた『受胎告知』の絵画が順番に流れていった。
「前後の脈絡なくない?」
「あるよ。俺にとってユリイコール聖母マリアなんだ」
頭上にクエスチョンマークでも浮かびそうな謎すぎる方程式を疑問に思いながらもカイは嬉しそうに話す。
「ユリって花言葉が”純潔”なのに色はピンクとか黄色とかオレンジとかあるなんて、おかしいと思わないか?」
「そう?綺麗で良いと思うけど」
「”純潔”と言ったら何色にも染まらないって言うことだろう。ユリが人の手によって色んな色に染まるっておかしいじゃないか。純潔だと言うならば純潔を貫き通すべきだと思うんだよ」
「バラも品種改良で色んな色あるよ?」
「バラは良い。バラは美しさを貫くべきだと思うから。無罪放免だ」
カイはたまにおかしな拘りと持論を展開することがある。考えが突拍子もないというか、斜め上にいっているというか。そんなところも魅力的だと思うのだから和泉も思わず頭を抱えてしまう。
「それって、白無垢が”貴方の色に染まります”って意味があって黒無垢が”すでに貴方の色に染まってます”って意味のやつに似たもの?」
「ううん、そうだな。俺としては白は”何色にも染まることが出来る色”じゃなくて”何色にも染まらない”っていう解釈なんだよ。確かに黒はもう染まっている。だけど黒の上から違う色で塗りつぶすことも出来るから寧ろ黒の方が何色にも染まることができると思うんだよ」
「なんか難しいなぁ」
「和泉には分からなかったかな」
カイの小馬鹿にしたような言葉に和泉は鼻白んだ。ユリの花びらが風に揺れるのを見ながらカイは話を続ける。
「人間ってのは独自性を死守する生き物だと思うんだ。要するに自分らしさってやつだ。愛する人の色に染められるって一見素晴らしいフレーズに聞こえるが、言い方を変えれば”自分らしさを捨てて相手に合わせる”ってことだろ?自分を見失ってまで献身する愛はそりゃあ盲目的だが俺は好きじゃないね。人間は依存じゃなくてそれぞれが自立すべきだよ。互いのことを大切に思っていながら自分を曲げずに生きていくのが一番だと思うんだ」
“自分らしさ” 和泉が今までもっとも気にしていたことだ。”自分らしさ”というものを抑圧され、いざありのままの自分を曝け出せば周囲の人間への恐怖心と不信に駆られ現実から逃げ出した。療養所とカイの前では和泉は”自分らしさ”を隠すことなく生きることができる。それがどんなに息苦しくなく、嬉しいことであるかは知っているつもりだった。大多数の人間に合わせれば生きやすいことは知っている。それでも本当の自分を曝け出すことを決めたのは”自分”のためだった。しかし和泉が今こうして自分を曝け出すことが出来るのはカイのお陰であるのが大きい。彼が自分を白眼視することなく接してくれたから今こうしていれる。和泉はカイが好きだ。もし、カイと恋人同士になれば和泉の”自分らしさ”というというものは消え失せてしまうのだろうか。カイと和泉がそういった関係になるのは有り得ない、というのを暗に言われているような気がした。
「和泉、俺は恋人や夫婦の関係を否定してるわけじゃないんだよ」
気難しい顔をしながら黙考していた和泉の心中を読んだかのようにカイが続ける。
「恋人や夫婦であれば必ず互いの色に染まるわけじゃない。自立をして支え合っていくことが一番大切だと思うんだ。二人の関係に留まらず和泉が自分の性別を決めかねているっていう話にも言えると思う。確かに世の中には男女二元論が主流だけどそんなの全ての人間の考えじゃないし、和泉がしたいようにするのが一番だと思うよ。絶対に男か女かに属さなきゃいけないなんてことも無いしな。他人の考えに左右されて自分が望んだように生きられないなんて疲れるし嫌だろ」
カイが中折れ帽のつばを下げて目深に被る。顔は見えなくても何となく照れてるように見えた。
「まぁ、以上俺の偉そうなお節介論でしたってことで」
カイが立ち上がって和泉に微笑みかける。その笑顔は無邪気で子供のようだった。
「あと、俺が思うにユリは聖母マリアの潔白を証明するものだと思うんだ。マリアがヨセフ以外の男と姦通したのは間違いだということを示すためにユリの”純潔”っていう花言葉があると思うんだ」
照れ笑いを誤魔化すように早口で先程のおかしな持論の続きを話すカイに和泉は嬉しさと同時に歯痒さを覚えた。カイは和泉に対して背を向けているので顔は見れなかった。背中に向かって一言投げかけた。
「ありがとう」
その言葉を聞いたカイがちらと和泉に視線を送る。直ぐに顔を背けたあと再び帽子を目深に被った。顔は見えないが恐らく先程よりも照れているのだろう。
カイがそろそろ戻るか、と言って早歩きでその場を後にする。いつもより少し丸まった背中を追いかけて和泉は笑うのだった。
五
夕食を療養所内にあるレストランで済ませた後、和泉とカイはそれぞれの自室に戻った。
和泉はベッドに腰かけてカイの庭での言葉を反芻する。
―――自立をする、か。だったら互いの色に染まらず自分らしさを見失かったらカイくんとそういう関係になるのもありってことなのかな
和泉は天井を眺めて物思いに耽った。もしカイと恋人になったとしたらどんな関係になるかはまるで想像がつかなかった。仲睦まじいだけの恋人同士なら良いかもしれないが、そういう関係なら妬みだの嫉みだの独占欲だの支配欲だの良い感情ばかりが生まれるわけではない。深い関係になると相手の自由を縛ったり自身の願望を強要する人間は少なくない。和泉は例えそういう関係になったとしてもカイから自由を奪いたくないし自分の自由を奪われたくなかった。カイはそんなことはしないだろうとも思ったがそれが珍しくないことである以上、絶対はないし不安を感じてしまってもおかしくない。
一呼吸ついて立ち上がる。ここで一人うだうだ悩んでいても埒が明かないのでカイと直接話すのが賢明だと判断した。
部屋を出てカイが寝泊りする客人用ベッドルームへと向かう。もうすぐ七時になるためか空は薄暗く、日中はライトコートから取り込んだ光で赫灼としている廊下も今はどことなく寂しく感じられる。すれ違う人もほとんど居らず先程までの威勢が消沈して気弱な気分になったが慌てて自分を奮起させた。
カイのベッドルームに着くと深呼吸した後扉をノックした。和泉が声を掛けるとカイの返事が聞こえたので入室する。カイはベッドに腰かけて本を読んでいるようだった。
「和泉、どうかしたか」
近づいてくる和泉を認めるとカイは本を閉じて手招きする。横に坐れ、ということらしい。和泉は若干及び腰でカイの隣に腰かけた。
「私、カイくんに聞きたいことがあるんだけど」
拍動が速くなり声が上擦りそうになるのを抑えながら話を切り出す。カイが「何?」と返すと和泉は意を決して言う。
「カイくんは私のことどう思う?」
緊張したせいか抑揚がおかしくなった。和泉はカイが来てからずっとドキドキしっぱなしだな、などと上の空のように考えた。
カイは和泉の言葉に一瞬目を丸くした後、視線を右往左往させた。
「突然だな。そんなこと聞いてくるなんて」
「ずっと考えてたの。私はカイくんのことが好きだし一緒に居たい。これは世間では恋だと捉えられるみたいだけど何だかそれだと腑に落ちないの。そのうち分かるかなって思ってたけどつい一人で色々考えてしまって…だったらカイくんに話したほうが早いかなって思ったの」
和泉の言葉を聞くとカイは和泉のほうに向き合った。悠然としていてその表情から真意を読み取ることはできなかった。
「俺も和泉のことが好きだよ」
カイは子供を諭すように穏やかな語調で続ける。
「でも俺が言う”好き”は一義的なものじゃないんだ。友達としてとか家族としてとかね。自覚してないないだけでもしかしたら恋愛的な”好き”もあるかもしれない。俺にとって和泉に対する”好き”っていう気持ちは一つにまとめることはできないし、無理に限定する必要もないと思ってるんだよ」
カイの丸いフォギーブルーの瞳が和泉を捉える。カイに好きだということを言われて和泉は胸が温かくなる気持ちになった。カイはいつだって和泉のことを否定したりしなかった。和泉のことを尊重して悩んでいれば助言してくれる。大仰と言われてもいつも闊達に受け入れてくれるカイを和泉は神様のようだと思った。
「和泉は俺に対する気持ちがどういうものなのか知りたいんだろう?方法がないこともないんだけどな」
「方法?」
「ああ、キスしてみるってのはどうだ」
カイの口から発せられたキス、という単語に和泉はびくりと体を揺らした。聞き間違いかとも思ったが先程と変わらない笑みを浮かべているカイを見る限りそうではないようだった。
「き、キスってそんな」
「嫌なら強要はしない。あくまでも提案ってことだ。代替案を考えるのもありだな」
和泉はカイとキスすることを想像したことが無いわけではなかった。しかし想像すれば想像するほどえもいわれぬ感覚に襲われ罪悪感のようなものを感じた。カイでそういう想像をするのは何だかカイを穢しているようような気がしてならなかった。しかし、ここで引いてしまえば結局何も答えは見つからないだろう。それにただ単純にカイとキスしてみたいと思った和泉は消極的な考えを払拭した。
「キス、したい」
和泉が消え入るような声で伝える。懇願するようにカイを見つめれば小さく笑って頷いた。
カイが和泉に体を寄せる。距離を縮めて和泉の顎に手を添えた。和泉の視界にフォギーブルーが広がった。絵具を水で薄めて伸ばしたようなその色に文字通り吸い込まれてしまいそうで和泉は思わず身じろいた。するとカイの腕が和泉の肩を捉えて離れないようにする。和泉が大人しくするとカイの唇が触れた。カイの唇は和泉が想像していたよりも柔らかかった。次第に唇が触れる面積が増えて押し付けるような形になると肩を掴んでいる手に力が入るのと反して和泉は力が抜けていくような気がした。
暫く触れるだけのキスを続けていると和泉の唇に生温かいものが触れたのを感じた。カイの舌が唇を割って入ってきたのだ。予想外の行動に和泉は驚きながらも舌を出して重ねる。濃密な唾液の交換に全身が熱くなり、内部がずくりと疼き始める。
数十秒ほどの濃厚な時間が終わり互いの身体が離れていく。和泉は全身が脱力したままで気を抜けば崩れてしまいそうなほどだった。息を整えて心を落ち着かせてから和泉はカイにゆっくりと顔を向けた。
「どうだった?」
「ど、どうだったって…ええっと」
「どうだったって訊かれても分からないよな」とカイが笑って言う。和泉は息も絶え絶えだったのにカイの方は平然としている。和泉はそんなカイに対して尻込みしてしまったように押し黙る。
和泉が少しばかり顔を赤らめて戸惑っているとカイが和泉の様子に気づき何かを察したように視線を寄越す。
「悪い、俺席外すな」
カイが立ち上がろうとしたところで和泉は慌てて口を開いた。
「ちょ、ちょっと待ってカイくん」
カイを止めようと必死に紡ぎだした言葉は和泉自身も驚きのものだった。
「私のこと抱ける?」
カイが瞠目する。一瞬何のことか分からないといったような顔をして数秒ほど静止した。言葉の意味を理解するとここに来て初めて明白に困惑したような表情を顕にした。
和泉はカイを制する余り飛び出してしまった自身の言葉にすぐさま激しく後悔した。キスをして興奮してしまったからと言って性行為の要求など普通ではない。和泉は唇を噛みしめて俯いた。これ以上カイの顔を見ることが出来なかった。
「…俺は構わないけど」
間を置いてカイから静かに告げられた。カイの言葉を理解するのに数秒要して和泉は顔から火が出そうになった。
「か、構わないって…えっ」
「和泉がそれで答えを見つけられそうだって言うなら手伝うよ」
和泉はカイのその言葉にどことなく違和を感じた。カイは言葉通りの意味で言ったのかもしれないが、もしかしたら和泉がカイを自身の欲求を満たすために要求したと思われたんじゃないかとかカイはキスといい今から行う行為といい他人と親密な事に及ぶのに抵抗を感じないのかとかそういった疑問が次々と脳内に浮かび上がるばかりだった。
六
和泉は浴室に居た。何故かというとカイと行う性交の為だ。身体が男同士の者で行う性交と言えば肛門性交だ。肛門性交を行うためには肛門を清潔にしなければならなかった。
和泉は自室から持ってきた腸内洗浄のための道具一式を広げた。
和泉はアナルオナニーの経験があった。アナルオナニーは元々知っていたが以前からしていたわけではなかった。和泉は療養所に来るずっと前にとあるバーで女性と出会った。初対面のその女性と流れでホテルに行くことになりそのまま体を重ねた。和泉は恋愛をしたこともなかったし、恋人も居たことがなかったが行きずりの女性と流されるまま初体験を済ませてしまったのだった。童貞ではなくなったからと言って和泉にとってその体験は大して記憶に残ってるわけでも感慨深いわけでもなかった。
その女性は女装した男が好きで、性交において特に主導権を握るのが必定らしく和泉との性交でも積極的にリードした。そのせいか和泉にその気が無いにも関わらず和泉のアナルに興味を示し執拗に弄ってきたのだった。その時は初めてだった為性感を感じることは無かったが、それ以来何となくアナルが気になり始め時々オナニーをしていたのだった。
最初はただ不快感しかなかった行為が回数を重ねれば次第に快感を感じるようになり最近は自慰と言えば専らアナルオナニーに興じていた。
しかし身体は健康な男であるが故昂奮すれば陰茎も勃起する。先程もたかがキスほどで昂奮した末に放った失言でこのような結果になったが、和泉はこの後のことを思うと拍動が速くなり再び体が熱を帯び始めるのだった。
カイが何を思っていようがもうどうにでもなれば良い。流れに身を任せて、その後のことは終わってから考えれば良いのだ。和泉はそう自分に言い聞かせて腸内洗浄を始める。
まず容器に入った浣腸液を準備していたお湯に浸ける。五分ほど経って人肌ほどの温かさになったことを確認して浣腸液をシリンジに入れる。便座に座って片方の尻を上げて肛門に浣腸液を注入した。浣腸液が全て入ったのを確認して便座にちゃんと腰かける。液が入ってるせいか腹部に圧迫感のようなものがある。何度アナルオナニーをしていてもこの圧迫感に慣れることはなかった。待つこと三分ほどで便意を感じて排泄した。圧迫感からも解放され体を綺麗にしようとシャワーを浴びた。カイを待たせるのも悪いので急いで身支度をする。肛門にローションを仕込んで軽く解しておく。予めしておけば寝室でやる時間が短縮できると思ったからだ。ローションが垂れないようにアナルプラグで栓をした。すっぴんなのも何だか気分が上がらないので軽く化粧をして、服は脱ぎやすい格好がいいだろうと考えてシュミーズにした。先程体の隅々まで洗ったので臭いや汚れなんかも大丈夫のはずだ。最後におかしいところはないか鏡で確認して浴室を出た。
客人用ベッドルームに戻るとカイは先程と変わらずベッドに腰かけていた。だが本は読んでいなかったようで読みかけの本がサイドテーブルに置かれていた。
和泉の姿に気づくとカイは微笑んだ。
「ごめんね、時間かかっちゃって」
「いいよ、大丈夫」
会話といい雰囲気といい今から性交を行うとは思えない空気感だった。まあ恋人同士でもないのでそこは仕方ないかと諦めて和泉はカイの隣に腰を下ろした。
そこで和泉が自室から持ってきた物の存在を思い出して袋から小瓶を取り出した。十センチほどの茶色のガラス小瓶に液体が入っている。
「それ何?」
「ラベンダーオイルだよ」
ラベンダーのアロマオイルにはリラックス効果があり、精神的身体的ともに苦痛を和らげることが可能だ。塵紙や手巾などに染み込ませて寝る際にベッドサイドに置けば安眠を期待することも出来る。和泉は小瓶の蓋を開けて塵紙にラベンダーオイルを数滴垂らす。少量でも薫りが強いのでつけすぎるのは良くない。
「その匂いどっかで嗅いだことあるような…」
「手紙じゃない?いつもラベンダーの文香使ってるから」
文香とは手紙と一緒に送る香り袋のことだ。いつも手文庫に忍ばせて使っている。アロマオイルや文香に使われているラベンダーは全て療養所内で職員たちが育てたものだ。ラベンダーの薫りは和泉のお気に入りだった。
ラベンダーの薫りがあれば少しは緊張も解れるかと思ったがそのあたりはなんとも言えなかったのだった。サイドテーブルに紙を置いて再びカイの隣に座りなおした。和泉がカイの方を見れば自然と目が合った。
「もう一回キスするか」
そう言ってカイは唇を重ねた。和泉も負けじと応戦した。先程も交わした行為なのに舌を吸われて体が熱くなる。このまま口付けていたら口内が蕩けてしまうんじゃないかとさえ思ってしまう。
昂りが益々強くなっていくのを感じているとカイの手が和泉の肌を這う。指先で首筋や胸元に優しく触れる。壊れ物を扱うようなその触り方に和泉の昂奮はどんどん大きくなる。行きずりの女性と性交した時もこんな風に触れられたが、今こうしてカイに触られると感じ方も違うのだと和泉は思うのだった。行きずりの女性の愛撫は性急でとにかく快感を引き出すことを優先していたが、カイの愛撫は快感を引き出すというよりは和泉を落ち着かせようとしている気がした。
カイの手が下りていき胸のところで止まった。シュミーズの上から乳首を探し当てると指の腹で摩るように触る。
「乳首、触られたことある?」
愛撫を受けるのに集中していたせいでカイの言葉に遅れて反応した。急いで頭の中を整理する。
「す、少しはある…けど」
「普段自分で触ったりしないのか?」
和泉は黙って首を縦に振った。行きずりの女性とした時は少し触られたこともあったが、普段自慰をする時に進んで触るということはなかった。開発すれば性感帯にすることも可能らしいが和泉は快感を感じにくくそこまでして開発しようと思う気も起らなかったのだ。
「そのわりには硬くなってるな」
カイの意地悪く笑った顔に和泉は顔が赤くなるのを感じた。普段弄っているわけでもない乳首を愛撫されて感じている和泉を揶揄っているのだ。和泉にとっても不本意だった。自分で弄ればそこまで快感を感じるわけでもないのにカイに触られると自分が触るのとは格段に感度が違うのだ。他人に触られている、という意識が昂奮を高めているのだろうと思った。
シュミーズの肩紐が下ろされ胸元が顕わになる。和泉は女性ホルモンは打っていないので乳房はない。そこにあるのは膨らみのない単なる男の乳首だけだ。
カイは乳首を指の腹で押し潰したり弾いたり優しく引っ張ったりした。和泉はその光景に気恥ずかしさを感じて視線を逸らした。
「胸なんて触って楽しい?」
カイに堪らず訊いてみれば乳首を弄る手を止めて和泉の方を向いた。
「楽しいよ。和泉の反応が可愛いから」
カイが玩具を前にした子供のように無邪気な笑顔で言う。閨房ではいささかそぐわないその笑みに和泉は若干調子が狂うのを感じた。
「別に気持ちよくないわけじゃないんだろう」
そう言われると言い返す言葉がない。
押し黙った和泉を見てカイは再び和泉の胸元に顔を埋めた。突然の行動に和泉が驚いているとカイは乳首を口に含んだ。乳首を舌上で飴玉のように転がし舐め紗ぶった。片方の乳首を吸われてもう片方の乳首は手で愛撫される。カイの執拗な責めに和泉は頭がくらくらするのだった。
ようやく乳首への責めが終わった。乳首を愛撫されただけで和泉の下半身はこれ以上ないほど昂っていた。
「下脱がせていいか?」
和泉は頷いた。カイがシュミーズの裾を上げて臍まで顕わにさせた。和泉は外見が中性的で女装をすれば女性にしか見えない。しかし体は正真正銘男そのものであり、骨格も男だ。男性の中では小柄で華奢な方だが女性に比べれば肩幅はあるし、脾肉は少なく膝窩も骨ばっている。女性のようにくびれがあるわけでもなく尻の脂肪も少ない。和泉の少年のような体に加えて男性器なんて見たらカイは萎えてしまうんじゃないかと思い和泉は恐縮した。そもそもカイはずいぶん手慣れているようだがやはり経験豊富なのだろうかと和泉は思うのだった。魅力的であるカイを女性が放っておくとも思えないし和泉よりも経験があるのだろうが、きっと男性と性交をした経験は無いのではないかと考えた。
「和泉の裸見たからってやっぱやめた、とか言わないから安心しろよ」
カイの、心の中を読んだかのように正鵠を射る言葉に和泉は戸惑った。カイは口角を上げて笑う。和泉はカイには隠し事はできないと確信した。
下着を脱がせるとすでに熱り立っている陰茎が飛び出した。カイは特に顔色を変えることなく和泉の陰茎に触れる。
「まずは一回くらいイっとかないとな」
カイは和泉の陰茎を掴んで上下に扱き始めた。完全に勃起しているせいで少しの刺激だけで射精感が高まっていくのを和泉は感じた。掌を密着させてゆっくりと往復する。カウパー液のおかげでローションがなくても動きがスムーズだ。今度は親指と人差し指で輪を作って動かし始める。指が裏筋に当たってどんどん血液が上がっていくような感覚になった。
「ちょ…ちょっと待って…出ちゃいそうだからもっとゆっくり…」
扱くスピードが速くなり射精感が高まる。和泉は陰嚢が収縮して陰茎が張っていくのを感じた。カイは「我慢せずにイっていいぞ」と言ってスピードを緩めることなく扱く。呼吸が荒くなり堪らず腰を動かしてしまう。弱まるどころかどんどん増していく快感から逃げることも出来ず和泉の頭の中は真っ白になってしまう。
射精を我慢している和泉を見かねてカイは鈴口に親指を押し付ける。若干爪を立てれば和泉に限界が来た。
「あぁぁ…駄目…出る…出ちゃう…あぁぁああ…」
瞬間頭の中が弾けたように白んで精液が射出した。勢いのせいでカイの服にまで飛びかかってしまった。和泉は息を整えながらサイドテーブルから塵紙を取り出してカイの服を拭う。
「ごめんねかかっちゃって…」
「良いよ、気にするな」
幸いカイが着ていたのは白い襯衣であったため余り目立たない。しかしカイの目の前で盛大に射精したことや自分一人だけ気持ちよくなってしまった事実に罪悪感を感じて萎縮してしまう。男性が射精した後俗に言う「賢者タイム」という不応期があるが、そのせいでカイとの行為を続行できなかったらと思う不安も浮かんだ。
和泉はカイの下半身に目をやった。カイも和泉と同じく昂奮しているようだった。和泉は咄嗟に自分を奮起させようと口走る。
「今度は私がカイくんを気持ちよくするね」
そういって和泉はベッドから下りて腰かけているカイの足を開いて割り込んだ。「無理しなくていいんだぞ」というカイの少し困惑したような声が頭上からしたが和泉はスラックスからカイの陰茎を取り出しながら返した。
「大丈夫。カイくんだって私のを触ってくれたんだから私も出来るよ」
恐らく男性の性器を触るのが初めてだったであろうカイは和泉の陰茎を嫌な顔せず扱いた。和泉だってカイに気持ちよくなって欲しかった。しかし和泉はフェラチオをした経験はない。かつて行きずりの女にしてくれた記憶を頼りにやってみるしかなかった。
カイの陰茎は立派なものだった。太さも長さも和泉のとは何もかも違う。和泉は人並みほどの大きさだがカイの陰茎は明らかに人並み以上だ。エラが張っていて亀頭が露出している。カイの予想以上の様相に和泉は気後れしながらも陰茎を口に入れた。亀頭全体を含んだだけで口一杯になってしまったので口に入らなかった部分は扱くことにした。まずは唾液で亀頭を濡らして舌を尖らせて舐めてみた。次第に血管が隆起して陰茎が膨張するのが分かった。つかさず片手で裏筋を触りながらカリ首のところも吸い上げた。カイの陰茎がびくびくして反応している。もしかしたら射精が近いのかもしれない。
「ま、待ってくれ和泉。これ以上されると出るっ…」
「らひていいよ?」
カイの焦ったような声が聞こえて中断することなく舐めていると和泉の肩に腕が伸びてきて離された。フェラチオに集中していた和泉はされるがままに引き離され口から陰茎が出ていく。
「もう少しでイきそうだったのに…」
「わ、悪い。もう少しで和泉の口に出そうだったからさ」
カイは汗を拭って気まずそうに言う。カイになら口の内に射精されても構わないのに、と和泉は思った。不完全燃焼である。「それにお楽しみは後にとっておくべきだろ」というカイの言葉が続く。後、とは挿入のことだろう。カイは和泉と最後までするつもりだ。
「和泉、仰向けに寝てくれ」
カイに言われた通りに和泉はベッドに仰向けになった。肛門には先程入れたアナルプラグが入っている。
「これ抜くぞ」とカイが言ってアナルプラグがゆっくりと引き抜かれる。
「もしかして、もう準備しておいた?」
「準備って言っても少し解した程度だけど…」
肛門はデリケートな場所だ。元々は性交に使う器官ではないので丁寧に扱わないと裂けたり傷ついたりする。女性器と違って濡れることもないので潤滑液で入念に解さないといけない。
「あんまりじろじろ見ないで…」
「あっ悪い」
カイがまじまじと和泉の肛門を見ているので和泉は羞恥を感じて足で屈めて隠した。
「ローションってあるか?」とカイが訊いたので和泉はサイドテーブルに置いた袋を教えた。袋の中には先程浴室で解したものと同じローションボトルが入っていた。
カイは手にしたボトルからローションを出した。透明で粘り気のある液体を掌に乗せる。
「力抜いてくれ」
カイの言葉に従って和泉は息を吐いて体の力を抜く。ローションを塗した指が肛門に触れる。人差し指がゆっくりと肛門に入っていく。和泉が普段使っている性具よりかは細くて短いものの人の指というものだからかそれだけで昂奮に繋がった。
予め解したおかげもあってか腸内の滑りがよく割とスムーズに指が入る。次第に二本、三本と指の数が増えていく。
するとさっきまで腸内で蠢いていた指が出ていってしまった。突然のことに和泉は目を白黒させた。
カイが頭を下げてベッドに伏せる。顔を和泉の陰部に持っていく。
「え、なにして…」
和泉が言葉を紡ぎ終わる前にカイは太腿を掴んで肛門に舌を這わせた。肛門の中を舌が割って入ってくる感覚に和泉は思わず身をよじらせた。
「カイくんっ何してるの。汚いよそんなとこ…」
「洗浄したんだろ?じゃあ汚くないよ」
カイはそんなことを言うが和泉は途轍もない羞恥心とカイに肛門を舐めさせているという背徳感から顔を背けるしかなかった。
カイが顔を上げると自身を陰茎を再び露出させた。
「もう挿れるけど、いいか?」
カイの陰茎は先程と変わらず隆々と屹立していた。和泉も肛門を舐められたことによって昂りが増していた。
「い、いいよ。来て…」
和泉は少々声を震わせながら答える。覚悟を決めたとは言えやはり不安だ。カイが手荒に抱くはずがないとは分かっていても、初めて他人のものを受け入れるのだから怖い。
カイは袋から取り出したコンドームを装着した。和泉の腰を掴んで亀頭を肛門に押し付けた。ずぶずぶと肛門が陰茎を飲み込んでいく。
「はっあぁ…」
和泉は大きく息を吐きだした。受け入れるには些か大きすぎるその怒張を飲み込むだけで精一杯だった。
「和泉、力抜いて」
腸内が蠕動して陰茎の侵入を阻もうとしている。和泉は必死に力を抜こうとするが上手くいかない。和泉自身も苦しかったがカイも陰茎が隘路に締め付けられているので相当きついようだった。
「痛くないか?」
カイが和泉を心配して声をかける。和泉は「大丈夫」と返した。日々拡張してるのもあって痛みはほとんど感じない。だが初めて本物の陰茎を受け入れたということもあり性具とは違う異物感に不安は拭えなかった。
「動くぞ」
カイがゆっくりと腰を動かし始める。最初よりは馴染んできたものの相変わらず締め付けは変わらない。少しでも不快感を和らげようと思ったのがカイは腹側に亀頭を押し当てた。ひたすら押し続けていると亀頭がクルミほどの大きさの器官に当たった。
「あっえぇぇぇっ…」
前立腺だ。そこを刺激すると和泉の体がびくんと大きく揺れた。和泉の反応を見たカイは前立腺を集中的に責めることにした。
「あぁっあぁぁっそこばっかりっ」
カイの執拗なまでの責めに和泉は無意識に逃げようとするがカイが腰を掴んでそれを許さなかった。大きく張った亀頭で前立腺を刺激すれば和泉は嬌声を上げて喜んだ。さっきとは明らかに声色が違う。カイ自身も締め付けも苦しいだけだったものから心地よいものに変わり快感を引き出した。
「あっぁぁっあっあっあっ」
「気持ちよさそうだな和泉」
「カイくんっぅきもちいいよぉぉっ」
和泉がいつも使っている性具でも快感は得られたがこの性交での快感はそれとは違っていた。なぜだか心が温かくなるような、言いようのない安心感を感じた。それは自慰でも、行きずりの女とも感じたことのない感覚だった。きっと相手がカイだからこそ感じれるものなのだろうと和泉は思った。
「カイくんっカイくんっ私もぉイっちゃいそうっ」
「俺もイきそうだから一緒にイこうな」
腰の動きもどんどん激しくなっていき射精に近づいているのを感じた。
「あぁぁぁっあぁっイくぅぅっ」
「はぁっ俺もイくっ…」
その瞬間カイと和泉は同時に果てた。和泉は今まで感じたことのないまでの絶頂を感じた。陰茎からドロドロと精液が零れている。トコロテン射精をしたのだ。
カイも肛門から陰茎を抜いてコンドームを外した。コンドームに大量の精液が溜まっている。相当出したらしい。
「悪い、無理させたな」
カイは和泉の隣に力が抜けたように横になって言う。二人とも激しい性交で汗をかいていた。
「大丈夫…カイくん優しかったし」
「そう言ってくれて嬉しいよ」
カイはにこりと笑って返す。「先にシャワー浴びてきていいぞ」と言ったので和泉はベッドから起き上がった。カイはただ悠然と笑っているだけで和泉に対してそれ以上言葉を求めてこなかった。
七
あれから一週間経ち、カイが帰る日を迎えた。
あれ以来カイは和泉に”答え”を求めてくることはなかった。気を遣ったのか訊く必要もないと判断したのかは分からなかったがカイはあの話を振ってくることも無かった。
和泉はと言うと、あの行為をしたことで”答え"を見つけることは結局出来なかった。性交までしておいて”答え”が出せなかったこと事実にカイに申し訳ないという気持ちが強いのもあってそのことを本人に言えずにいたのだ。
もうすぐ療養所を出る時間だ。帰ってしまう前に伝えないといけなかった。和泉の正直な思いを。
カイの客人用ベッドルームに向かうと、扉からカイがちょうど出てくるところだった。手にはトランクがあった。和泉に気づくと微笑んだ。
「カイくん、今いい?」
「ああ、いいぞ」
和泉は意を決して切り出す。伝えなければいけない、自分の思いを。
「カイくん、私がカイくんに対して抱いてる気持ちが何なのか分からないって言ったからカイくんは私のこと抱いてくれたんだよね」
「ああ」
「優しさだけでも私のこと受け入れてくれて、私のこと否定しないでくれて嬉しかった。でも私はカイくんにあそこまでしてもらって結局答えが出せなかった。カイくんは聞いてこなかったけど私すごく申し訳なかった」
ちゃんと整理したはずなのに口から発せられるとぐちゃぐちゃでまとまりのない言葉になってしまった。どうやったら上手く言語化できるのか分からなかった。
「別に答えとかいいんだよ。答えなんて出せなくても和泉が思うままにすればいいよ」
「でも、」
「俺、言ったよな。俺の和泉に対する”好き”は一つの意味だけじゃ無いって。だから和泉も無理して決める必要ないし、答えが出ないのが”答え”かもしれないだろう?関係に名前を決めなきゃいけないってわけでもないしな」
カイは普段と変わらない笑みで和泉の頬を撫でた。温かく優しい手つきに和泉は胸が締め付けられるような気がした。
「ごめんね。でも私、カイくんのことを好きって気持ちだけは本当だから」
「うん、ありがとな。俺も和泉が好きだよ」
カイはトランクを持って歩き始めた。和泉も隣を歩く。そこで和泉はあることを思い出した。
「あっ!カイくん、私渡したい物があるから玄関で待っててくれる?」
「分かった」
カイがそう返すと和泉は慌てたように廊下の向こうに小走りで消えていった。
カイが暫く玄関ホールで待っていると和泉が現れた。手には小瓶のようなものを持っている。カイはこれを見たことがあった。
「それって…」
「ラベンダーオイル。そこの花壇で職員さんが育てたラベンダーで作ったの。ずっとカイくんにも渡そうと思って」
あの夜の情事でも使ったオイルだった。黒い小瓶の中に液体が揺れているのが見えた。
「リラックスとか安眠とか色んな物に効くから良かったら使って」
和泉はカイに小瓶を渡した。カイは「ありがとう」と言って小さく笑った。
「また連絡してね。いつでも来てくれて良いから」
「ああ、また手紙でも電話でもするよ」
次に会えるのは夏ごろだろうか。和泉は早くもカイに次に会える日を楽しみに思った。
外に呼んでいたタクシーが止まるのが見えた。カイは「じゃあ、また」と手を振って背を向けた。和泉はその広い背中が見えなくなるまで見送った。