くつひもむすべない

一次二次問わずたまに18禁の小説を載せるブログ

In The Dark.

 

 

 

 春の日、君と出会った。君は所在なさげにそこに立っていた。こちらに気づくと困ったような顔をして視線を伏せた。その時何を思っていたのかは分からなかった。
夏の宵、君が初めて笑った。縁側に座っている君の許に捕まえた蛍を見せてやると、目を細めて笑った。無数の飛び交う光の中、君につられて笑った。
秋の麗、君は空を眺めていた。「空ってどこまで続いているんだろう」と君は不意につぶやいた。何も言えなかった。見上げても碧落が広がるだけで答えは書いていない。
冬の暁、君がいなくなった。さがしても、さがしても、君はどこにもいなかった。不器用な笑顔も、何気ない言葉も、君は手の届かない場所へ行ってしまった。別れも言わずに、僕の知らないところへ、どうして、どうしてーー



瞼を開けると見えたのは一面の榛摺色だった。天井だ。顔を横に動かせば障子が見えた。暗晦な部屋に差し込んだ白色の光が眩しく感じる。上半身を起こして部屋にある掛け時計を見た。午前二時を回っている。こんな時間に目が覚めてしまうなど、"あんな夢"を見たからかーー。
ひどく懐かしい記憶だ。とうの昔に忘れたと思っていたのに、このような形で再び思い出すのはやはり心残りでもあるのか。胸の内で反芻する。桜の木、出会い、夏の夜、笑顔、秋の空、答えのない問い掛け、別れの冬、冷たい部屋、たった一人でー
長い月日が過ぎた。悠久の日々の中、数多の人間を渡り歩き、数多の運命を辿り、出会いと別れを繰り返しながらここに行き着いた。"鬼丸"という名前を授かったあの日から始まってしまった淅瀝たる己の歴史は、耳を塞ぎたくなるような、叫びたくなるようなものだった。人々から忌み嫌われ、遠ざけられることもいつのまにか当たり前になり、今ではもう慣れてしまった。ひとたび人間に失望すれば、もう期待することもなく執着することもない。何かに関心を抱くことさえないと思っていた。それでも、それでも未だに思い出してしまうのはなぜなのか。
記憶の奥底に放り込んだキャビネットの鍵を開けようという気なんてない。開けようとすれば胸を抉られるような痛みが走る。結局のところ怖いのだ。全てを失うのが。

身体を捻って蒲団から抜け出す。寝間着の上に半纏を羽織って襖を開け、廊下に出るとひんやりとした冷気が肌を突き刺した。もう三月とはいえ夜はまだまだ肌寒い。冷たい風で意識が覚醒し眠たげな目を見開かせた。空を見上げれば満月が薄い雲の狭間から光を漏らし、廊下を照らしていた。裸の足は氷のように冷たく、薄氷を割らないように神妙な足取りで進む。
するとどこからか、ひた、ひたという音がした。一瞬泥棒の可能性も考えたが特徴的なリズムに身に覚えを感じた。まさかこんな時間に起きているのか、と考えながら足音の主が近づいてくる。暗がりから白い光を浴びて顔を出したのは、予想通りの人物だった。
「…あれ、鬼丸?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔つきでこちらを見つめる。その顔は昼間よりも些か幼げで、気だるげに眉が下がっている。見慣れた普段の顔よりしおらしくて別人にさえ思える。この寝惚け顔の男が天下の名物太刀、童子切安綱であることを初めて見た者はきっと信じないだろう。
「珍しいなあ、おねしょでもした?」
「それはお前だろ。寝小便小僧。」
「失礼な!俺がそんなことするわけないだろ」
眠たげに瞼を擦りながら反論する童子切を見てふと脳裏に昔の記憶が過る。足利に居た頃、年甲斐もなく寝小便をしてしまい夜中に赤らんだ顔をしながら盗っ人が留守家に盗みに入るかのような様子で布団を引きずっていたのを、何度も見たことがあった。もはや性癖とも言える悪癖は治ったのかと気になった。
「こんな時間に珍しいな」
「んー…割と深夜に目が覚めることが多いんだけどな。特に最近」
「それはまた難儀だな。やはり寝小便か」
「だから違うって!…変な夢見るんだよ」
居心地の悪そうな表情に「夢?」と首を傾げて問いかける。どこか余所余所しい様子で視線を泳がす。見た覚えのある仕草だ。この男は言い難いことや自分に都合の悪いことを詮索されると決まってこのような仕草をする。どれだけ気丈に振舞っても地の性格は誤魔化せない。この男がどんなに見栄を張ったって虚勢を張ったって、己の目を欺くことは不可能なのだ。
「夢?どんなのだ」
「いつも同じって訳はないんだが…昔のことを夢に見るんだ。鬼丸と出会った頃のとか一緒に過ごした頃のとか… 毎回決まってお前が出てくる」
昔を懐かしむような口振りと相反するようにその漆黒の瞳は己の瞳と交わることはなく足許に向いている。言葉とはまた違った意味を含んだような様子に僅かに傾いた奴の頭の天辺を見つめた。月に雲がかかったのか線の束が消え廊下が周囲が暗くなった。それに比例して奴の顔にも翳が落ちる。
「…だから夢見が悪い、と」
「ま、まあそんなところ」
「…………。……仕方ない、部屋に行くぞ」
息をひとつ吐いて童子切の右腕を掴んだ。「はっ!?」という鳩に豆鉄砲どころか猟銃で狙撃されたかのような声を上げる。腕を掴んだまま童子切が来た廊下を進む。目的地はもちろんこいつの部屋だ。
「ちょっ、どこに行くんだよ」
「部屋だと言っただろう」
「だから誰の!」
「お前の。一緒に寝るぞ」
「はあ!?」
「声がでかい」と小さく言えばハッとしたように口を噤んだ。他の連中が起きてもし見られたら困ることはないが、面倒なことになるのは勘弁したいので静かにさせたかった。
ざあ、と草々が風にそよいで月が再び顔を出す。光が廊下を照らして部屋までの道が開かれる。光に導かれるように進むと、握った右腕に力が入った。何か言いたげな気配に気づいていないふりをした。背後の奴がどんな顔をしているかはだいたい想像がつく。

部屋の前に着くと躊躇わず襖を開けた。見慣れた部屋はいつもと変わらず畳にもぬけの殻の蒲団が一式敷いてあるだけだった。殺風景な自室とは違い、近くの机には物が散乱していたりと多少なりとも生活感があり、ずぼらなこいつらしいと思わず口角が上がる。
半纏を脱いで冷たくなった蒲団に入る。
「ってお前がそっち使うのかよ」
童子切は呆れたようにぼやいて押し入れを開ける。
「何言ってる、もう一式出す必要はない」
「はあ?畳で寝ろってこと?風邪ひくじゃん」
「そういう意味じゃない。」
訝しむ童子切に口には出さず視線で察しろと言わんばかりに合図する。すると漸く意図が分かったのか瞠目して静止する。
「一緒に寝るって…そういう」
「深い意味はないぞ」
「当たり前だろ!」
童子切は観念したような様子で蒲団に入った。蒲団一式に大の男二人はやはり窮屈だった。正面を向けば肩と肩がぶつかる。ごつこつとした感触に思わず眉を寄せる。
「せまいなあ」
「男二人で一つの蒲団だから当然だ」
「…明日誰かに見られたらどうしよう」
「別に構わんだろう。疚しいことをしたわけでもない」
「そりゃ、そーだけどさ…」
どこか納得のいかないような声をあげる。暗闇なので顔は見えないが声色だけでどんな顔をしているかは容易に想像できた。
夜は孤独を感じる。昼間はそんなこと感じないのに、夜に部屋で一人きりになると途端に世界に自分だけ残されたような寂寥感が襲ってくる。夜には特別思い入れがある。尚更夜になると沈鬱な気分になる。
「…なあ」
「どうした」
「さっき言った昔の夢っていうの、鬼丸と過ごした時のこと見るって言ったけどそれだけじゃないんだ」
「……………」
「足利で鬼丸と過ごした何気ない日々、鬼丸と初めて出会った日のこと、鬼丸が蛍を見せてくれた夏の夜のこと、どうでもいいこと訊いて鬼丸を困らせた時のこと、それで…突然鬼丸と離れ離れになった日のこと」
懐かしむような声色と今にも泣きそうな声色が混ざって、童子切がどんな表情をしているのか想像することは出来なかった。
楽しかった、毎日何気ないが充実していて優しい日々。楽しいことばかりではなかったが、それでも良かったと言えるのはこの男が居たからだろう。
「鬼丸が居なくなった途端、周りの人間たちが俺を囲んで嗤っているんだ。俺を不吉な刀だと、持ち主を不幸にする刀だと皆が口々に嘲るんだ。苦しくてもがいて、それで俺は最後は独りにされるんだ。皆俺を置いてどこかに行ってしまう」
「…………」
「でもまた暫くして鬼丸と再会したら前の楽しい日々が帰ってくる。だけど離れ離れになったらまた皆が嗤うんだ。夢の中の鬼丸は俺に笑いかけてくれるけど、次第に笑顔が消えていく。それで…俺の元から去っていって…」
「もういい、それ以上喋るな」
童子切の悲痛な声を遮るように口を開く。もうこれ以上聞きたくなかった。この男の苦しみは並大抵のものではなかった。己もこの男のように多くの人間に忌み嫌われ、遠ざけられた。刀好きの英傑にも、天下の将軍さえ己を恐れた。"鬼丸国綱は人を守る刀ではなく、人を死へ誘う刀"だと。
これが変えることの出来ない運命ならば受け入れようと思った。いっそ地獄の底まで具してやろうと思った。それを含めて"鬼丸国綱"という刀であるから。
この男はその苦しみを隠して生きて来たつもりなのだろう。笑顔の影に貼り付けて、気づかれないように。そんなことをしても無駄だと気づいているはずなのに。
「俺の前では…見栄なんて張らなくていい。ありのままのお前でいろ。」
「……………」
「嘘の笑顔を見せて傷つくお前も、他人のために身を削るお前も、偽りでさえお前自身なのだから俺はお前の全てを受け入れる。俺たちが世に名刀として語り継がれているという事実は、俺たちにとって"光"かもしれない。だけど俺達が生きる世界に光がさすことなんてないんだ。」
この男が居なければ今の自分はきっと存在しないだろう。心は死に、生きる活力すら得られず骸のようにただそこに在るだけ。それでも、今こうして生きていられるのは
「辛い時も苦しい時も、ずっと傍にお前が居た。再会と別れを繰り返しながら、ここまで来た。俺はお前と出会えて本当に良かったと思っている。お前が居ない世界なんて俺はハナから興味ないからな。大切な奴が一人でも居るから、この世界に光がなくたって守ろうと、生きようと思えるんだ。」
必死に言葉を紡いで顔は見えずとも童子切の方を向いた。こんな気恥しいことが言えるのも顔が見えない状態だからだ。蒲団の中を探って、童子切の右手を握った。節ばっていてか細い指。いつもこの手で刀を握って戦っているのだと思うと、わずかに笑みを浮かべる。
「…不思議だな。鬼丸に励まされると何だか自分が悩んでる事が馬鹿らしく思えてくるよ。いつもは俺に手厳しいこと言ってくるくせに、こういう時になると優しい言葉をかけてくれるところがずるいと思う。まあ、鬼丸のそういうところが好きなんだけどさ。」
「言っておくが俺は誰にでも優しいわけじゃないぞ」
「知ってる。今もこうして一緒に寝てくれるのも鬼丸の優しさだもんな」
主人を苦しめる悪夢を斬った太刀でもある由縁か、安眠を保証できる自信はある。
「もしかしたら、俺たちが堕ちる先は極楽浄土なんかじゃなく地獄かもしれない。俺たちが今生きてる世界も日の当たらない暗い世界かもしれない。それでも、俺は鬼丸となら怖くないよ。この終わりのない夜を一緒に生きていこう。」
繋いだ左手にわずかに力が入る。握り返した細い手はいつもより温かった。




鳥の囀りが聞こえて目が覚めた。瞼を開けると暗闇はなく、障子から暖かな朝の光がさしていた。左手には解かずに繋がれたままの右手。童子切はまだ夢の中だ。悲痛の表情は浮かんでおらず、規則的な寝息を立て穏やかな顔をしている。
起こさないようにそっと手を解いて蒲団から抜け出し、静かに襖を開けた。縁側に出ると雲一つない蒼穹が広がっていた。向こうからは他の刀剣男士たちの賑やかな声が聞こえてきた。
廊下には太陽の光がおちている。だが、相変わらず自分たちの世界に光がさすことはない。そしてあの日の「空はどこまで続いているのか」という問いの答えもない。もし答えを求めるならば「空も闇も永遠に終わることはない」と言うだろう。恐らくこれからもそれは不変だ。それでも構わない。俺たちはこの闇を二人で歩いていくのだから。
遠くからきこえた自分たちを呼ぶ声に答えるように、部屋に入って童子切を起こそうとする。相変わらず幸せそうな寝顔に、後でどんな夢を見たのかと聞くかと思いながら襖を閉めた。





I would rather walk with a friend in the dark, than alone in the light.
                              - Helen Keller -

光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良い。