くつひもむすべない

一次二次問わずたまに18禁の小説を載せるブログ

Dear My Brother

 兄弟とは何なのだろうか。
いや、何なのだろうかという問いは少し違う。意味は知っている。兄弟とは即ち血縁者、同じ親から生まれた者同士のことだ。
では同じ親から生まれていない、血縁者でもない者同士は兄弟とは呼ばないのだろうか。そんなものは自明だ。そのようなものまで兄弟などと答える者なんて居ない。兄弟の範疇を、定義というものを真剣に考えたことのある者など、この世界にどれほど居るだろうか。少なくとも今までの自分は無かった。茶を飲み、縁側で外の景色を無為に眺めたり、時折庭を散歩したり、出陣したり、傷を負えば手入れをし、身体を休める…
毎日取り留めがないといえばないような日々を過ごしている。傍から見れば非日常とも言える戦いでさえも、刀剣男士として顕現された己にとってはよもや日常であり不可欠なものであった。
肉の器というものはたいそう不思議なもので、毎日同じことをしても無聊を託つこともなくまるで暇を持て余しているかのようなこの生活も日々違ったものを見つけられて面白いものだ。
ただの刀として、美術品として人間に眺められ飾られるのも兇くはないが己の付喪神の魂を宿らせた肉の器というものは思うがままに思考し、動かすことができる。
面白いと思うが反面、縟わしいと思うこともある。怪我をすること、痛みを感じること、余計なことまで憂懼すること。
人の躯を得る前は一度たりとも考えたことのなかったことまでも今となっては考えるようになってしまった。人の躯というものは本当に不思議なもので、一度そのことについて悩み始めると解決するまで頭から離れないらしい。その悩みの種は同郷の"あの男"だ。己がこのようなことを思っているとはまさか知りもしないのだろう。己らしくもない問いかけだ。答えの返ってこない問いかけを想い、思慮に沈みながら鈍色の空を仰いだ。


『"俺"と"大包平"は兄弟なのか』


暖かな日和だった。幸い風もさして吹いておらず、わずかな雲の隙間から青い空が顔をだしていた。寒々しい冬木立の隣にいくつか山茶花が咲いている。まだ霜がかかっていないものは花弁を落とさずに後少しばかりの命を紡いでいるようだ。この季節は一年を通して尤も侘しい景色が広がる。雪でも降れば風情があるのだが、雪がないと見ていて気が滅入るような庭だ。
「花がいくらか散っていますな」
背後から声がして振り返れば派手な容貌にそぐわないいつもの内番着姿の一期一振が立っていた。
「一昨日は霜が降りるほど寒かったからな。仕方ない。お前は内番か、一期一振。」
「畑仕事を終えてきました。大根が沢山とれました。今日の夕餉が楽しみです」
いつものように屈託のない、人当たりのいい笑みを浮かべる。己の心の裡とは裏腹すぎるその面にもはやこちらも釣られて笑いそうになる。側に置いた盆を移動させると、其処に一期一振が腰を下ろした。肩を並べて暫く無言のまま裸の木々を見つめる。どちからということもなく黙っていれば、痺れを切らしたか一期一振が口を開いた。
「鶯丸殿は?」
「見ての通り休憩だ。茶でも飲んで庭を眺めている」
「天気が良いとはいえ、寒いでしょう」
「冬は寒くて当然だ。それに昨日よりかは暖かい。その上そういう気分なのでな」
「ああ、昨日の"あれ"ですか」
あれ、という言葉に眉がぴくりと動いた。一期一振の口ぶりから何を言っているのか理解しているようだった。それも当然だ。この男には昨日己の心の裡を打ち明けている。
「まだお悩みとは、鶯丸殿らしくありませんな」
「俺らしさというものは俺にもよく分かっていない。くよくよ悩むのも俺らしいかもしれんぞ」
「細かいことは気にするな、ではないのですか?」
「そのはずなんだがなぁ」
どうやら想定外の問いに囚われてしまったようだ、という言葉は飲み込んだ。本来些細なことは気にしないのが己の性分だったはずだ。それなのにこのような些末な悩みを抱えるとは、まさに自分らしくなく、どうにも気分が良くない。
「俺と大包平は兄弟だと思っていた。いや、思っていたのではなく今も思っているんだがな。だが、どうしても本当にこれでいいのかと思ってしまうんだ。もしかしたら前から気付いていたのかもしれないが、気づいていないふりをしていたのかもしれない」
大包平、悩みの種であり"兄弟"である男だ。古備前の一派である包平作の太刀で日本刀の横綱とも評されている所以か、共に並び称えられている刀への闘争心や評価には人一倍敏感なようでプライドが高く常に堂々としている反面どこか負い目に感じている部分があるようだった。この大包平という男はたいそう己を退屈させない男で、観察しているだけで無聊を慰めるに丁度いいのだ。
「知っていると思うが、大包平を作刀したのは包平で俺を作刀したのは友成だ。生みの親が違う。兄弟というのはお前たちのように、同じ刀匠から生まれた刀のことをそう呼ぶのだろう。俺は勝手にあいつのことを兄弟だなんて呼んでいるが、実のところは違う」
「確かにそういう意味としては兄弟とは呼べないかもしれませんが…まあ、その、そんなに拘る必要はないのでは?」
「拘るか…細かいことなどどうでもいいと言っている癖に俺もそんなこと気にしているのだろうな」
「私も…弟たちは同じ粟田口で吉光作とはいえ、短刀や脇差と太刀では違うところも多々ある上に太刀が私一振りということもあって疎外感を感じることも時々あります」
「お前が?意外だな」
「と言っても私が勝手に感じているだけです。刀種が違えど弟たちは大切な家族です。弟たちが居るお陰で私は日々生きていけるのですから」
同じほどの目線で相変わらず眩しいほどの柔らかな笑みを見せた。金色の眸は此方の心をお見通しかと言わんばかりに射抜いていて、若干居心地が悪い。
「それに兄弟という枠に捕らわれる必要もないでしょう」
「枠?」
「ええ。鶯丸殿がどうしても、と仰るなら仕方ありませんが兄弟の名に執着する訳ではないのでしたら関係性も他にもありますよ。それに、無理に名をつける必要もありませんしね」





「今から手合わせか」
盆を持って廊下を歩いていると赤毛の頭と逞しい体格の、見慣れた後ろ姿を見つけた。声をかければいつもの赤い軍服を着ている大包平がいつもと変わらない顔で振り向く。
「ああ。お前も来るか」
「いや、俺は遠慮する。あそこは寒い」
道場に行くようだ。当然ながらあの場所は寒いので、炬燵にでも入ってぬくぬく待機するのが得策だ。
心の裡を見透かしたように己よりも高い位置にある灰色の双眸が何か言いたげに語っている。同時に眉間に皺が寄り、眉毛が歪んだ。口を開きかけたが、諦めたのか押し黙った。閉口して暫し経った後、此方から言葉を投げ掛けてやった。
「なあ、大包平
「何だ」
「お前は俺を兄弟だと思っているか」
は?と言いたげに眉を再び顰める。そんなに顔を顰めていたら折角の男前が台無しだぞ、と思いながら大包平は虚空に視線をやった。
「お前は前に俺を兄弟だと言っていただろう…違うのか」
「そうだと思っていた。だがもしかしたらそれ以外の関係性もあるかもしれないのじゃないかと考えてな」
「下らんことを考えるな、お前は」
下らんとは何だ。己の中では人の躯を得て尤も深く悩んだことなのだぞ。たった二日だが。
大包平は暫く黙考したあと、再びその双眸でまっすぐ見据えた。
「兄弟だとか、兄弟ではないだとか、そんなことはどうでもいい。ただこれだけは言える。鶯丸、お前は俺にとって大切な存在であることは間違いない。俺たちの関係性に名前などつける必要はない。ただ黙って近くに居ろ。それだけだ」
その言葉を言ったあと、何を思ったのか押し黙ってしまいよくわかない空気が流れる。途端に居心地が悪そうにして大包平は視線を泳がせ、何か言え!と目で訴えてきた。それを見て思わず笑いが出る。
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。俺もその答えを期待していたぞ」
「突然おかしなことを言い出したかと思えばこれか」
「まあ大切な同郷がこんなこと言ってくれたんだしな。言葉に甘えて今までより一層観察させてもらおうか」
「なっ…実際のところお前の狙いはそれか!」
喧しい怒鳴り声を背に踵を返した。自室に置いた観察日記を取りに行こう。尊大で、誰よりもプライドの高く、己を飽きさせないあの男、兄弟であり友人であり大切な存在である彼を今日も書き留めるために。






良薬は口に苦し

 童子切安綱という男は残酷な男だ。
一見するとそんな男には見えない。虚勢を張っている。あの男は自分を偽ること、他人を欺くことに長けているのだ。
あの男には見せかけだけの"優しさ"というものを持っている。長閑で穏やかで泰然として寛大な心を持っている。だから周囲の者はその優しさを享受して心を許してしまう。
その優しさはある者には"薬"となり、ある者には“毒"となってしまう。
あるいは恵みを齎す"泉"となれば、心身の弱った者を引きずりこむ"底なし沼"ともなる。
あの男の優しさは道化のようなものだ。あの男を信用してはならない――― 大包平はただ一人、思案に暮れた。

 

*

 

童子切が負傷した。しかも重傷らしい。
まるで耳寄りの情報を持ってきたとでも言いたげな表情の同郷に大包平は思わず苦虫を潰したような顔をする。それを見て同郷、鶯丸は口角を上げて言う。
「お前のことだからあれやこれや論うかと思ったが」
その言葉に思わず眉間を押さえてしまう。この男は自分を何だと思っているのだろうか。童子切がどんな理由であれ、負傷したならそれは紛れもない禍患だ。それを茶化すほど幼稚でなければ余裕がないわけでもない。この男は自分が童子切に気圧されているから、童子切に何かあればその弱味に付け込もうと常に隙を狙っていると思っているのだろう。
あいつだって怪我をすることくらいあるだろう。一々騒ぎ立てるようなことでもない。」
「予想外だ。お前のことだから虎視眈々の如く、あの男の優位に立つ機会を狙って何か行動を起こすと思っていたんだがな」
先程同じ部隊の者に担がれて手入れ部屋に入るのを見たが、随分弱っているようだ。
その笑みに含まれている意味を感じ取って、再び苦虫を潰した。何故この男はこうも分かりにくいことをするのだろうか。
離れていく緑髪の後ろ姿に大包平は小さく舌打ちをして背中を向けた。


廊下は冷たかった。"冷たい"というよりは"寒い"と形容するのが的確だった。
今年の冬は例年よりも比較的暖かい日が多かったが、師走ともなれば流石に気温が下がり一気に冬らしくなった。
大包平は冬が余り好きではなかった。肉の器を得て今年で三回目の冬となるが、未だに寒さには慣れないでいた。刀の時は感じることもなかった四季の感覚は、有難味を感じることもあれば苦い思いをすることもあり良いこと悪いことの半々だった。
人間は昔から冬の寒さを凌ぐために様々な物を用いていたようだが、炬燵や火鉢があるということには何より心強い。
びゅう、と木枯らしが吹いて木に残っていた幾つかの枯葉が風に乗って飛んでいく。痩せ細って貧相な木の枝に残っている葉はさしづめ親から離れたくない子のようだった。だが風が吹けば無慈悲に引き離される。黒々とした葉と痩せっぽちの木が一層寂寥感を際立たせていて、大包平は尚更冬が好きになれなかった。
ここの本丸の庭には桜の木があるが勿論今は花などない裸の木だ。南天山茶花など冬に咲く花もあるが、庭を彩るものの気配などなく、いっそのこと雪でも降れば風情があるがまだそれほどの寒さではなかった。
こんな寂しさしか感じない季節を、肉の器を得たばかりのあの男はどう思っているのだろうかなど空想しながらひんやりとした廊下を歩いた。

童子切が入っている手入れ部屋の前に立つ。手入れ中なので寝ているかとも思ったが、何も言わず入るのには気がひけたので小さく声をかけて障子を開けた。
一式の蒲団の上に寝ている男が一人。紛れもなく重傷を負った童子切安綱だった。
傷の残る顔には幾許か悲痛さが滲み出ていた。途轍もなく苦しそうな表情でも悶え喚いているわけでもないが、苦痛を堪えているかのような表情に大包平は思わず視線が釘付けになる。
常に飄々としていて堂々と構えている男の思わぬ弱りようにどんな顔をしていいか分からなくなる。
どうすることもなく童子切の面を見つめているとその視線を察してか薄い瞼が開かれた。
漆黒の双眸と視線が絡まり数秒ほど交わす。何回か瞬きをした後再び双眸を閉じて床に就こうとする。
「嫌な夢だな…」
「夢じゃない!」
思わず出てしまった大包平の大声に童子切は反射的に飛び起きた。眼前の男に童子切は目を白黒させながら暫し視線を泳がせる。
「…何でお前が?」
「…傷心のお前を労いに来てやったんだ」
柄でもないことを口走る。特別労いに来た訳でも励ましに来た訳でもない。あの同郷に感化されて来たというのはとても癇に障る。
ならば、何のためにここに来たのかと自分に問いかけてみるが答えは出てこなかった。
別に童子切が重傷で手入れ部屋に入ろうがわざわざ見舞いに来るほど心配性でもない。だが同郷にあんなことを言われて内心動揺してしまったのも事実だった。普段威勢がいい奴の弱った姿を見て嘲笑いたかったのだろうか。そんな方法で一時の優越など感じる気はない。では何故か?考えても分からない。

童子切は疑い、困惑、不信など様々な感情を孕んだような表情で大包平を見据えた。何か言いたげな顔だ。戸惑いが尤も多く感じられる。
「気持ち悪い奴。お前そんなことするっけ」
「断じて違う」
「じゃあ何で?」
「自然と足が向かっていたんだ」
「なんとなくで来んなよ。見てわかるだろ、俺重傷だったんだぜ」
片方の眉を吊り上げて狡猾そうに笑う。悪戯好きの少年のような笑みだが、蒲団から出した腕には包帯が巻かれていて痛々しい。体を動かすのもどこか億劫そうで、軽口を叩いているが恐らく傷が痛むのを我慢しているのだろう。
「なーんでよりによってお前が来るの。鬼丸や髭切が来てくれたら嬉しかったんだけどなー」
「ふん、俺が来てやったのにその言い草か」
「別に来てほしいとか言ってないし」
「………………」
「…何だよ?」
「お前、何故重傷を負った?」
ずっと感じていた単純な疑問を投げかける。こう思うのも無理はなかった。
童子切は割と新参で肉の器を得て日は浅いものの、人間の身体に不慣れというわけでもなく特に問題なく順応していて、ここ数週間のうちで怪我を負うことすらほとんどなかった。
そんな男が突然重傷を負ったとなればなぜかと思うのが普通だ。
童子切から笑みが消え、俯いて目を伏せた。ただ沈黙して口を開こうとしなかった。大包平も黙って童子切を見つめた。部屋は静寂に包まれた。

暫しの静謐の後、ゆっくりと童子切は口を開いた。
「一言で言えば庇った、で良いのかな」
「…庇う?」
「今日の出陣も、いつも通り何事もなく終わるはずだったんだが討ち漏らした敵が居たみたいで不意打ちで襲いかかってきたんだ。やられそうになったのが短刀でさ。これはまずい、って反射的に間に入って当然の如く俺はやられたわけよ。相手は大太刀だったからな、下手したら死ぬところだった」
淡々と話す童子切大包平は一瞬胸がちくりと痛むような感覚を覚えた。何でもないように笑うその男の顔は、俯いてて分かりにくかったが必死に取り繕っているかのような笑顔だった。
「まあ、短刀と太刀がやられるんだったら、太刀がやられた方がダメージ小さいよな。俺が重傷だったんなら短刀は破壊されてたかもしれないし。他の隊員が無事なら、俺はそれで十分だ」
顔を上げて大包平に笑いかけた。その笑顔は心の底から笑っているようで、嘘で塗り固められたかのような空虚さを感じた。大包平は直感した。この男は"優しすぎる"と
よく考えてみれば、この男に"自己犠牲"の精神であることを知るなど簡単なことだった。"誰かのため" "他人のため" この男は常に他者の力になれることに何より尽くしてきたのだった。
そんなことをする理由は「見返りを求めてる」わけでも「体裁を気にしている」わけでもない。この男は"優しすぎる"のだ。
この男の優しさは、他者を救い、恵みを与えるが、一定の境界線を越えるとたちまち"薬"から"毒"へと変貌する。
優しさは致死量となって他者を苦しめ、この男に優しくされないと死んでしまう。
そして底なし沼のような心は、弱った者を誘い込み、引きずり込んで溺れさせる。二度と元に戻れないように
そんな恐ろしい優しさに、大包平もまた"見初められた"者の一人だった。


「―お前は馬鹿だ」
静かに言い放つ。まるで自分自身に言い聞かせるように。
「はあ?いきなり馬鹿とは失礼な…」
訝しげな表情をする童子切に飛び込んだ。その優しさの海に身を投げるかのように、ひとつに解け合って、原型が分からなくなるくらい、二人でひとつになれるように、ただひたすら力をこめて抱きしめた。
突然の抱擁に、童子切の体が小さく跳ねた。予想外の行動に驚くのも無理はなかった。
「お前は馬鹿だ。そして俺は正直お前のことがいけ好かない。折角お前と肩を並べて、評されることのできる称号を持っているというのにお前は逃げてばかりで俺のことなど見ようともしない。俺はいつだって、お前のことだけを見ていたのに」
昔から、この男の背中を追いかけてきた。いつからか並んで評されることとなった、片割れの刀は自分とは正反対の経歴を辿り、正反対の考え方を持っていた。一族から持ち出されることもなく、特別な逸話も無く、そんな自分を正反対の空想の中で隣に立つ男のことを無意識に僻んでいた。
"自分には持っていないもの" "持とうと思っても持てないもの" 自分がずっと広くて暗い檻の中で、見ることも叶わない空と同じくらい欲しがっていたものを、この男はいとも簡単に手に入れていたのだった。
刀としての価値なら負けはしないのに、なぜこの男と同等になることができないのかー
長い間、考えまいとしても考えずにはいられなかった男の背中を追いかけ、隣に立つことだけを考えていた。
この男の優しさに、誰よりも毒されていたのは自分自身だったー

「お前一人で背負い込むことじゃない。辛いなら俺も一緒に背負ってやる」
「何で上から目線なんだよ」
「俺はお前の片割れだ。隣に立つ者だ。苦労は二分するのが道理だろう。」
「俺はお前のこと片割れだなんて認めてない」
「勝手に言っていればいい」
ますます力を込めて抱きしめる。若干骨が軋むような感覚がして、小さく童子切が唸った。
「…苦しい。離れろ」
「一人で背負い込まないと約束すれば離してやる」
「……………分かったよ。約束する。約束するから離してくれ」
渋々といった感じであったが童子切の了承の言葉を聞いてゆっくりと抱擁を解く。
「…俺、別に辛くなんかないんだよ。ただ、皆から頼られることが嬉しいんだ。」
「頼られることが強さの証明か。」
「強いから頼られているんだ。それは確かだ」
童子切の自信に満ちた言葉に大包平は思わず口を噤んだ。言い返せなかった、というよりは言い返す言葉がなかった。
この男は自分の強さを理解している。だが、自身の優しさの致死性には気づいていないのだ。
「…すっかり冬になったな」
童子切が不意に呟く。独り言かのような言い方だった。
「ここの庭は、冬に花とか咲くのか?」
「去年は南天が咲いていたが…」
「そうか。じゃあ雪も降ればさぞ綺麗だろうな」
手入れ部屋の障子は雪見障子じゃないから外が見れなくて残念だ、なんて笑う顔に大包平は心を曇らせる。
この男は肉の器を得る前に、雪というものを見たことがあったのだろうか、などと問いかけることも出来ない言葉を飲み込んで。


童子切安綱という男は残酷な男だ。
見せかけだけの優しさで他者を欺き、苦しめ、依存させる。底なし沼なんかよりももっと深い"毒"の海は、人を堕落させる。
だが、その"毒"の海にもう一人、身を投げる者が居るのならその者はどこまでも共に堕ちていくのだろう。
終わりの見えない"優しさ"に添い遂げるたった一人の男がー

太陽の方向へ

これ(In The Dark. - 靴とまぼろし)のおまけ

 

 

 いつからだろうか。"己が人の主を持つべきではない刀"だということに気づいたのは。
いつからだろうか。再び人を信用することはないと確信したのは。
いつからだろうか。"あの男"と共に生きていきたいと思ったのは。
いつだって現実は非情だ。次こそは次こそはと思う度に裏切られる。己が持つ最早"呪い"とも言えるこの力に抗うことが出来ないという現実を日毎に痛感させられる。人が己を忌避するなら、こちらもまた人を忌避すればいいだけのこと。懲りずに"期待"なんてするから傷つくのだ。人の主など持たず、ただ蔵の奥で眠っていればいい。そのはずだったーー



「何やっているんだ」
この光景を目の当たりにして開口一番放った言葉がそれだった。
無理もない。大の男二人、しかも古くからの付き合いの腐れ縁とも言える友人二人揃って全身ずぶ濡れになっていればそんな言葉が出てくるのは当然だった。
「なにって見ればわかるだろー?涼んでるの!」
縁側に立っているこちらに対して上目遣いでニッコリと笑う長身痩躯の男。右手には水やり用のホース、左手にはピストル型の水鉄砲。着物は肩から裾まで大雨にうたれたかのように全身ずぶ濡れ。真っ直ぐな髪の毛は水を吸ってしんなりとして太陽の光で反射した艶が見える。
この男がまさか、"かの"天下五剣のうちの一振りで東西の両横綱の東の横綱だと知れば卒倒する人間も出てきそうな有様だった。
「それは涼んでいると言うより…遊んでいるだけだろう」
「そうそう、"水鉄砲ですまっち"というやつだよ」
重たく口を開けば同じく全身ずぶ濡れの男が返答した。訳あって縁のある源氏の重宝、もとい髭切は普段と変わらない柔和な微笑みに思わず頭を抱えた。
「あのなあ…お前たち、水鉄砲で遊ぶなど餓鬼じゃないんだぞ…」
「別に大人がやったって良いだろー?こんな遊びが出来るのは今だけだぜ」
「和泉守たちが随分楽しそうに遊んでいたからね。僕たちもやってみたいなーって思ってね」
髭切のマシンガン型水鉄砲から噴射される水を眺めながら、もはや言い返す気力もなく黙り込む。他の奴らがやっているのを見て自分たちもやりたくなった、だからやるというプロセスの実行速度がこの男たちは本当に速いとつくづく思う。子供のように無邪気に戯れる二人を尻目に突き刺すように容赦なく降り注ぐ熱光を掌で覆う。本当にこの国の夏は暑いぞ。かなり暑いと聞いていたが想像以上だ。この暑さだと外に出るのも億劫になるが、そこは個人差だということだろうか。
太陽の光は平等に大地に降り注ぐ。だけど"光"は違う。"光"は強く大きな輝きを放つものもあれば、弱く小さいものもあり、中にはそもそも"光"がないものもある。俺もかつてはそうだった。だがいつの間にか"光"がそこにあったのだ。生まれたのか、はたまた隠れていたのか。どちらでもない。ある日突然"男"が"光"を携えてやってきたのだ。
何も見えない真っ暗闇に太陽のような光が指した。人から必要とされず忌み嫌われてきた己の心に"光"を与えたのは他の誰でもない、目の前で餓鬼のようにはしゃいでいるあの男だった。

本来ならば、あいつも"俺と同じ側"の刀だ。
だが、あいつは出会った時から心の内を他者に見せずに隠そうとする。そしてなお他者に救いを与えようとする。普通なら理解できない行為だ。俺だって差し伸べられた手に易々と取るほど単純ではない。だが、気付いたら手を取っていた。その"光"を必要としていた。一度それを知ってしまったらもう元に戻る事は出来ないのだと知った。今も思う。俺はきっと、あいつがくれた"光"がないと生きていけないのだということを。そしてあいつと生きていきたいということを。

「鬼丸ー!」
名前を呼ぶ声がしてその方向に目をやると、相変わらずずぶ濡れの面で破顔している男が駆け寄ってきた。
「鬼丸も水鉄砲やろうぜーその厚着じゃ暑いだろ?」
「余計な世話だ…お前らみたいに濡れるのは御免だ」
「大丈夫大丈夫、脱げば問題ないよ」
髭切に上着を剥ぎ取られ、水鉄砲を手渡される。強制参加だ。拒否権はないらしい。
ふと視線を感じて見てみるとあいつがにやにやとうすら笑いを浮かべている。
「何だよ」
「別にー」
意味深な笑みを絶やさず背を向け自分の陣地に戻っていく。バケツの水は装填済み。いつでも戦闘態勢に入れるようだった。濡れた背中に声を投げかける。
童子切
「ん?」
「ありがとな」
脈絡のないその言葉に目を丸くして首を傾げる。何のことかわかってないらしい。当然だ。分からなくていい。俺だけが知っていればいい。
太陽のような人。ある日突然現れて、"光"を与えた。その"光"を携えながら、今もこれからも共に闇を照らして歩いていく。
日差しが照りつける地面を踏みしめながら、二人の元へ向かった。

 

In The Dark.

 

 

 

 春の日、君と出会った。君は所在なさげにそこに立っていた。こちらに気づくと困ったような顔をして視線を伏せた。その時何を思っていたのかは分からなかった。
夏の宵、君が初めて笑った。縁側に座っている君の許に捕まえた蛍を見せてやると、目を細めて笑った。無数の飛び交う光の中、君につられて笑った。
秋の麗、君は空を眺めていた。「空ってどこまで続いているんだろう」と君は不意につぶやいた。何も言えなかった。見上げても碧落が広がるだけで答えは書いていない。
冬の暁、君がいなくなった。さがしても、さがしても、君はどこにもいなかった。不器用な笑顔も、何気ない言葉も、君は手の届かない場所へ行ってしまった。別れも言わずに、僕の知らないところへ、どうして、どうしてーー



瞼を開けると見えたのは一面の榛摺色だった。天井だ。顔を横に動かせば障子が見えた。暗晦な部屋に差し込んだ白色の光が眩しく感じる。上半身を起こして部屋にある掛け時計を見た。午前二時を回っている。こんな時間に目が覚めてしまうなど、"あんな夢"を見たからかーー。
ひどく懐かしい記憶だ。とうの昔に忘れたと思っていたのに、このような形で再び思い出すのはやはり心残りでもあるのか。胸の内で反芻する。桜の木、出会い、夏の夜、笑顔、秋の空、答えのない問い掛け、別れの冬、冷たい部屋、たった一人でー
長い月日が過ぎた。悠久の日々の中、数多の人間を渡り歩き、数多の運命を辿り、出会いと別れを繰り返しながらここに行き着いた。"鬼丸"という名前を授かったあの日から始まってしまった淅瀝たる己の歴史は、耳を塞ぎたくなるような、叫びたくなるようなものだった。人々から忌み嫌われ、遠ざけられることもいつのまにか当たり前になり、今ではもう慣れてしまった。ひとたび人間に失望すれば、もう期待することもなく執着することもない。何かに関心を抱くことさえないと思っていた。それでも、それでも未だに思い出してしまうのはなぜなのか。
記憶の奥底に放り込んだキャビネットの鍵を開けようという気なんてない。開けようとすれば胸を抉られるような痛みが走る。結局のところ怖いのだ。全てを失うのが。

身体を捻って蒲団から抜け出す。寝間着の上に半纏を羽織って襖を開け、廊下に出るとひんやりとした冷気が肌を突き刺した。もう三月とはいえ夜はまだまだ肌寒い。冷たい風で意識が覚醒し眠たげな目を見開かせた。空を見上げれば満月が薄い雲の狭間から光を漏らし、廊下を照らしていた。裸の足は氷のように冷たく、薄氷を割らないように神妙な足取りで進む。
するとどこからか、ひた、ひたという音がした。一瞬泥棒の可能性も考えたが特徴的なリズムに身に覚えを感じた。まさかこんな時間に起きているのか、と考えながら足音の主が近づいてくる。暗がりから白い光を浴びて顔を出したのは、予想通りの人物だった。
「…あれ、鬼丸?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔つきでこちらを見つめる。その顔は昼間よりも些か幼げで、気だるげに眉が下がっている。見慣れた普段の顔よりしおらしくて別人にさえ思える。この寝惚け顔の男が天下の名物太刀、童子切安綱であることを初めて見た者はきっと信じないだろう。
「珍しいなあ、おねしょでもした?」
「それはお前だろ。寝小便小僧。」
「失礼な!俺がそんなことするわけないだろ」
眠たげに瞼を擦りながら反論する童子切を見てふと脳裏に昔の記憶が過る。足利に居た頃、年甲斐もなく寝小便をしてしまい夜中に赤らんだ顔をしながら盗っ人が留守家に盗みに入るかのような様子で布団を引きずっていたのを、何度も見たことがあった。もはや性癖とも言える悪癖は治ったのかと気になった。
「こんな時間に珍しいな」
「んー…割と深夜に目が覚めることが多いんだけどな。特に最近」
「それはまた難儀だな。やはり寝小便か」
「だから違うって!…変な夢見るんだよ」
居心地の悪そうな表情に「夢?」と首を傾げて問いかける。どこか余所余所しい様子で視線を泳がす。見た覚えのある仕草だ。この男は言い難いことや自分に都合の悪いことを詮索されると決まってこのような仕草をする。どれだけ気丈に振舞っても地の性格は誤魔化せない。この男がどんなに見栄を張ったって虚勢を張ったって、己の目を欺くことは不可能なのだ。
「夢?どんなのだ」
「いつも同じって訳はないんだが…昔のことを夢に見るんだ。鬼丸と出会った頃のとか一緒に過ごした頃のとか… 毎回決まってお前が出てくる」
昔を懐かしむような口振りと相反するようにその漆黒の瞳は己の瞳と交わることはなく足許に向いている。言葉とはまた違った意味を含んだような様子に僅かに傾いた奴の頭の天辺を見つめた。月に雲がかかったのか線の束が消え廊下が周囲が暗くなった。それに比例して奴の顔にも翳が落ちる。
「…だから夢見が悪い、と」
「ま、まあそんなところ」
「…………。……仕方ない、部屋に行くぞ」
息をひとつ吐いて童子切の右腕を掴んだ。「はっ!?」という鳩に豆鉄砲どころか猟銃で狙撃されたかのような声を上げる。腕を掴んだまま童子切が来た廊下を進む。目的地はもちろんこいつの部屋だ。
「ちょっ、どこに行くんだよ」
「部屋だと言っただろう」
「だから誰の!」
「お前の。一緒に寝るぞ」
「はあ!?」
「声がでかい」と小さく言えばハッとしたように口を噤んだ。他の連中が起きてもし見られたら困ることはないが、面倒なことになるのは勘弁したいので静かにさせたかった。
ざあ、と草々が風にそよいで月が再び顔を出す。光が廊下を照らして部屋までの道が開かれる。光に導かれるように進むと、握った右腕に力が入った。何か言いたげな気配に気づいていないふりをした。背後の奴がどんな顔をしているかはだいたい想像がつく。

部屋の前に着くと躊躇わず襖を開けた。見慣れた部屋はいつもと変わらず畳にもぬけの殻の蒲団が一式敷いてあるだけだった。殺風景な自室とは違い、近くの机には物が散乱していたりと多少なりとも生活感があり、ずぼらなこいつらしいと思わず口角が上がる。
半纏を脱いで冷たくなった蒲団に入る。
「ってお前がそっち使うのかよ」
童子切は呆れたようにぼやいて押し入れを開ける。
「何言ってる、もう一式出す必要はない」
「はあ?畳で寝ろってこと?風邪ひくじゃん」
「そういう意味じゃない。」
訝しむ童子切に口には出さず視線で察しろと言わんばかりに合図する。すると漸く意図が分かったのか瞠目して静止する。
「一緒に寝るって…そういう」
「深い意味はないぞ」
「当たり前だろ!」
童子切は観念したような様子で蒲団に入った。蒲団一式に大の男二人はやはり窮屈だった。正面を向けば肩と肩がぶつかる。ごつこつとした感触に思わず眉を寄せる。
「せまいなあ」
「男二人で一つの蒲団だから当然だ」
「…明日誰かに見られたらどうしよう」
「別に構わんだろう。疚しいことをしたわけでもない」
「そりゃ、そーだけどさ…」
どこか納得のいかないような声をあげる。暗闇なので顔は見えないが声色だけでどんな顔をしているかは容易に想像できた。
夜は孤独を感じる。昼間はそんなこと感じないのに、夜に部屋で一人きりになると途端に世界に自分だけ残されたような寂寥感が襲ってくる。夜には特別思い入れがある。尚更夜になると沈鬱な気分になる。
「…なあ」
「どうした」
「さっき言った昔の夢っていうの、鬼丸と過ごした時のこと見るって言ったけどそれだけじゃないんだ」
「……………」
「足利で鬼丸と過ごした何気ない日々、鬼丸と初めて出会った日のこと、鬼丸が蛍を見せてくれた夏の夜のこと、どうでもいいこと訊いて鬼丸を困らせた時のこと、それで…突然鬼丸と離れ離れになった日のこと」
懐かしむような声色と今にも泣きそうな声色が混ざって、童子切がどんな表情をしているのか想像することは出来なかった。
楽しかった、毎日何気ないが充実していて優しい日々。楽しいことばかりではなかったが、それでも良かったと言えるのはこの男が居たからだろう。
「鬼丸が居なくなった途端、周りの人間たちが俺を囲んで嗤っているんだ。俺を不吉な刀だと、持ち主を不幸にする刀だと皆が口々に嘲るんだ。苦しくてもがいて、それで俺は最後は独りにされるんだ。皆俺を置いてどこかに行ってしまう」
「…………」
「でもまた暫くして鬼丸と再会したら前の楽しい日々が帰ってくる。だけど離れ離れになったらまた皆が嗤うんだ。夢の中の鬼丸は俺に笑いかけてくれるけど、次第に笑顔が消えていく。それで…俺の元から去っていって…」
「もういい、それ以上喋るな」
童子切の悲痛な声を遮るように口を開く。もうこれ以上聞きたくなかった。この男の苦しみは並大抵のものではなかった。己もこの男のように多くの人間に忌み嫌われ、遠ざけられた。刀好きの英傑にも、天下の将軍さえ己を恐れた。"鬼丸国綱は人を守る刀ではなく、人を死へ誘う刀"だと。
これが変えることの出来ない運命ならば受け入れようと思った。いっそ地獄の底まで具してやろうと思った。それを含めて"鬼丸国綱"という刀であるから。
この男はその苦しみを隠して生きて来たつもりなのだろう。笑顔の影に貼り付けて、気づかれないように。そんなことをしても無駄だと気づいているはずなのに。
「俺の前では…見栄なんて張らなくていい。ありのままのお前でいろ。」
「……………」
「嘘の笑顔を見せて傷つくお前も、他人のために身を削るお前も、偽りでさえお前自身なのだから俺はお前の全てを受け入れる。俺たちが世に名刀として語り継がれているという事実は、俺たちにとって"光"かもしれない。だけど俺達が生きる世界に光がさすことなんてないんだ。」
この男が居なければ今の自分はきっと存在しないだろう。心は死に、生きる活力すら得られず骸のようにただそこに在るだけ。それでも、今こうして生きていられるのは
「辛い時も苦しい時も、ずっと傍にお前が居た。再会と別れを繰り返しながら、ここまで来た。俺はお前と出会えて本当に良かったと思っている。お前が居ない世界なんて俺はハナから興味ないからな。大切な奴が一人でも居るから、この世界に光がなくたって守ろうと、生きようと思えるんだ。」
必死に言葉を紡いで顔は見えずとも童子切の方を向いた。こんな気恥しいことが言えるのも顔が見えない状態だからだ。蒲団の中を探って、童子切の右手を握った。節ばっていてか細い指。いつもこの手で刀を握って戦っているのだと思うと、わずかに笑みを浮かべる。
「…不思議だな。鬼丸に励まされると何だか自分が悩んでる事が馬鹿らしく思えてくるよ。いつもは俺に手厳しいこと言ってくるくせに、こういう時になると優しい言葉をかけてくれるところがずるいと思う。まあ、鬼丸のそういうところが好きなんだけどさ。」
「言っておくが俺は誰にでも優しいわけじゃないぞ」
「知ってる。今もこうして一緒に寝てくれるのも鬼丸の優しさだもんな」
主人を苦しめる悪夢を斬った太刀でもある由縁か、安眠を保証できる自信はある。
「もしかしたら、俺たちが堕ちる先は極楽浄土なんかじゃなく地獄かもしれない。俺たちが今生きてる世界も日の当たらない暗い世界かもしれない。それでも、俺は鬼丸となら怖くないよ。この終わりのない夜を一緒に生きていこう。」
繋いだ左手にわずかに力が入る。握り返した細い手はいつもより温かった。




鳥の囀りが聞こえて目が覚めた。瞼を開けると暗闇はなく、障子から暖かな朝の光がさしていた。左手には解かずに繋がれたままの右手。童子切はまだ夢の中だ。悲痛の表情は浮かんでおらず、規則的な寝息を立て穏やかな顔をしている。
起こさないようにそっと手を解いて蒲団から抜け出し、静かに襖を開けた。縁側に出ると雲一つない蒼穹が広がっていた。向こうからは他の刀剣男士たちの賑やかな声が聞こえてきた。
廊下には太陽の光がおちている。だが、相変わらず自分たちの世界に光がさすことはない。そしてあの日の「空はどこまで続いているのか」という問いの答えもない。もし答えを求めるならば「空も闇も永遠に終わることはない」と言うだろう。恐らくこれからもそれは不変だ。それでも構わない。俺たちはこの闇を二人で歩いていくのだから。
遠くからきこえた自分たちを呼ぶ声に答えるように、部屋に入って童子切を起こそうとする。相変わらず幸せそうな寝顔に、後でどんな夢を見たのかと聞くかと思いながら襖を閉めた。





I would rather walk with a friend in the dark, than alone in the light.
                              - Helen Keller -

光の中を一人で歩むよりも、闇の中を友人と共に歩むほうが良い。

 

相剋する境界線(プロット)

 これはまだ東の横綱が顕現していない世界線での話。

或る日大包平が出陣するとこれまで見たことないような敵と遭遇した。極めて人型に近いけど人とは思えないようなオーラを放っており、見たことはの無いが敵であることは分かった。大包平は倒そうとするが異様なほど強くなかなか倒せない。
刀の大きさから太刀なのだろうが、パワーとかテクニックとかとにかく今までの敵と格段に違う。大包平は何とかして倒すが、消える瞬間にそれまで余裕がなくて見てなかった顔を真近で見る。

どこかで見たことある顔。いや、見たことはないけど知ってるかもしれない顔。会ったことはないはずなのにそう感じる自分に大包平は困惑するんだよ。男士に似てる者が居るのかと思ったけど、考えてみても該当する者は思い浮かばない。それからあれが何だったのかはっきりせずもやもやしたまま時間が経ち、次の出陣であの敵と再度邂逅することに。

その時に留まらず、何度も邂逅する。何度斬っても何度殺しても、また次は何事も無かったように蘇る。そして様々な時代に出現する。大包平が出陣したら必ず。もしや自分以外の男士にも接触していると思い、他の男士にも聞いてみたが大包平が求める答えを返す者は居なかった。

ある日、大包平が"その敵"と何度目かの邂逅をし、"その敵"がいつもとは違うことに気づいた。何やら口を動かしているように見える。まさか話そうとしている?そして自分になにか伝えようとしているんじゃないかと思ったが、何と話しているのか聞き取ることはできなかった。

「-------、-----、----------」
人が発するとは思えない獣ような低い唸り声に、最初に出会った時よりも人の形から離れ化物に近づいていっている姿。片腕は人の腕のようなのに、もう一方の腕は太く隆々としていてまるで"鬼"のよう。禍々しい殺気に大包平は取り敢えず倒さないといけないと思った。

"その敵"はいつもより抵抗しているように感じた。そしていつもより様子がおかしいような。いつもより鬼気迫っているような。双方の死闘の末に大包平は"その敵"の首を狙った。いつもは首なんて狙わないし、何故その時首を狙ったのかも分からない。だが、刀が引き付けられるように首を捉えた。

(※若干注意) 一瞬だった。斬れ味にも申し分ない大包平の刃は紙でも切るようにすっぱりと"その敵"の首を刎ねた。まさに一刀両断。瞬間的に"その敵"と目線があった。猟奇的な状況の中の刹那的な視線に大包平は思わずその眸の奥の真意を理解してしまったように思った。そして大包平はその顔が何なのか。

分かったような気がした。胴体と離れた頭は地面に落ちる前に砂のように消えていった。胴体も瞬く間に跡形もなく失せた。大包平は頭の中に一瞬浮かんだ名前と先程の"あの顔"が繋がったことにとてつもない違和感と不快感を覚えた。なぜそんなことを思ってしまうのか、考えてもわからなかった。

それから幾らか経った頃。本丸に新しい刀剣男士がやって来た。いよいよこの本丸にも待望のあの男士がやって来るのだと、いつもより騒がしい。やがて新たな仲間が姿を現した。周りの男士たちが歓迎の言葉を各々に述べている中、大包平はその刀剣男士の顔を見てただ一人呆然とした。

少し前、何度も何度も邂逅した"あの顔"がそこに在ったのだ。前よりも格段に"人らしい顔"をして"どう見ても人の腕"をしている。穏やかな雰囲気をまとっていて、どこからどう見ても"普通"の"刀剣男士"だ。新しい仲間が大包平の方にやって来た。人当たりの良さそうな柔和な笑みを浮かべている。

「久しぶりだな」
不意に言われたその言葉に大包平は一瞬反応に送れる。
「お前...」
表情は変わらない。普通であれば好印象のその笑みも今は不思議と不気味に思う。久しぶり、という言葉に大包平はその意味をすぐに理解した。
「まさか忘れた…なんて言わないよな?"お前がころした"童子切安綱だよ」

六十九回目の追憶

「こんなところでどうしたんだよ」

童子切が背後から声をかければ大包平は大きな体躯を億劫そうに動かして振り返った。突然の童子切にもさして驚いているようでもなかった。大包平童子切は本体が互いに離れた距離にある。本来ならばこうして顔を合わせることは非常に難しい。しかし本体から生み出された分霊ならば本体がなくとも自由に動き回ることが出来る。大包平童子切に対して驚いていないのもそれが理由だ。 大包平童子切に暫し一警を与えたあと再び顔を背けて呟いた。

「見れば分かるだろう」
「今までの自分の経歴を思い返して感傷に浸ってるってことは分かる」

全く違う、と言い返すのを躊躇って大包平は背後を睨んだ。童子切大包平の方 に向かってくると黙って隣に腰を下ろした。いつもは真っ直ぐ伸びている背中も今だけは丸くなっている。大包平と対比するように童子切は体を伸ばして空を 見上げる。一面雲一つない青が広がっていた。

「折角の記念日なんだしもっと嬉しそうにすれば良いのに」
「嬉しそうに、だと?」

6月9日、今日大包平が国宝に指定されたという通達が届いた。もちろん童子切 も、同じく天下五剣なら三日月宗近も一緒だ。大包平は以前から国宝だった。 5年前に指定された法が改正されたことによって新たに新国宝となったのだ。国宝となるのは大変喜ばしいことだ。厳重に保管され杜撰に扱われることもない。
そして何より箔がつく。しかし、大包平はそれを単純に喜ぶことが出来なかった。 こんなことは大して喜ぶようなことでもない。

「本当かなあ…」
「…なんだ」
「もしかして、新国宝になったことで益々コンプレックスが加速してたり?」
 
大包平童子切の言葉に思わず動揺を見せた。決してその言葉が本心だというわけではないが、動揺を露にしてしまった以上それが本心だと思われるのは非常に癪だった。

「そんな深く考える必要ないと思うけどな」
「俺は決して気にしているわけでは…!」
「また国宝でいられて嬉しーで良いんじゃないのか。俺はそう思ってるけど」
「………………………」

今回の文化財保護法の試行によって「国宝」では無くなった物もある。天下五剣の数珠丸恒次もそうだ。国宝でなくなったからといって、その刀の品位が下がるわけが無いがそれでも大包平としては複雑だった。

大包平は人間からの評価が気になって仕方ないみたいだなあ」 
「別に気にしているわけではない!見出だされるのが遅かっただけだ」

いつものお決まりの文句に童子切は思わず苦笑する。

「刃生って振り子みたいなもんだよな。左に行ったり右に行ったり、速くなったり遅くなったり。ずっと同じ状態が続くなんてことは有り得ないんだよ」
「俺は長らく同じ家に居るが」
「それは今の話だろ?いつかは違うところに行くかもしれないじゃないか」

幾多の主を転々としてきた童子切が言うと妙に説得力のある言葉だった。

「もしかしたらこの先俺とお前が同じ主の元に行く可能性だってあるじゃないか」
「俺たちを所有できる人間などいるものか」

大包平童子切が同じ人間の元に居たことは一度もない。刀の収集が好きだった 豊臣秀吉も、天下人であった徳川家康でさえ不可能だった。そもそも大包平は池田家から出るということさえ考えられなかった。

「俺たち近々同じ場所に行く予感がするんだよな」
「俺とお前が同じ…」
「個人の元じゃなくて博物館とかだと思うけどな」

博物館、という言葉を大包平は反芻した。博物館ということは不特定多数の人間の目に触れられるということだ。今までもその経験はあったが祝い事の際くらいで決してその回数が多いわけではない。

「人間の目ばっかり気にしてる大包平には無理かなー」
「お前に出来て俺に不可能なことがあるか!」

つかさず言い返して大包平童子切がけらけら笑っているのを見て、童子切の思惑通りの返しをしたことに気づいて顔をしかめた。

「俺も昔は人間に見られるのは嫌だったからその気持ち分かるよ」
「お前が?」
「意外に思う?」
「まあな」

童子切大包平と違って様々な人間の元へ行き、刃生の酸いも甘いも経験した刀だ。きっとその経験の中では良いことばかりがあったわけではないだろう。童子切もかつては自分と同じような苦悩があったのだろうかと考えて大包平はふとある思いが脳裏に過った。

「なあ」
「何だよ」
「…お前も昔は"人間からの評価を気にして"いたのか」

童子切大包平の言葉に特に戸惑うこともなく、悠然と笑った。

「もう随分昔の話だ」

童子切と大包平で「陽炎、抜錨します!」パロ

 あいつと初めて会ったのは刀剣男士選抜試験の最終審査での帰り道だった。

突然の雨に降られ雨宿りしようと軒下に行くと先客がいた。赤い四方に尖った髪に長身で精悍な顔立ちをしている男だった。歳は自分と同じくらいだったが何だか近寄り難い雰囲気を醸し出していた。
しかし何も話さないのもなんだか気まずいのでこちらから話しかけることにした。
「なあ、君も刀剣男士の選抜試験の帰りか?」
雨音が反響する中暫しの沈黙のち男は口を開いた。
「…そうだが」
やはり。そうだ。この時間にここにいるのも見た目や雰囲気からしてそれっぽいと思ったのだ。
会話を続けることにした。
「君どこから来たんだ?」
「…………」
「今日の試験、最終審査だけに難しかったよなー」
「…………」
「刀剣男士になれたら希望の刀種とかある?」
「…………」
何だよこいつ。さっきは答えたくせに何でいきなり黙り始めたんだ?話したくないのだろうか。
男の目を良く見ると冷たい鉄のような色をしていた。目も鉄みたいな色だから性格も鉄みたいに冷たいんだろうなと思ってそれきり話しかけるのをやめた。雨がやんできたので一足先に出ていくことにした。男はこちらを最後まで見ることなく黙って正面を見つめているだけだった。

あの男と再会したのはあれから数ヶ月経った日のことだった。

選抜試験された刀剣男士は本丸に配属される前に鍛錬場で戦闘の基礎を叩き込まれる。部隊対抗の手合わせで相手部隊に奴は居たのだった。今まで全く姿を見かけなかったので落ちたかと思っていたら、まさかこんなところで再会するなどとは思っていなかった。
相変わらず無愛想な男だ。手合わせが始まりそれぞれ隊員同士の1体1勝負となったが俺が当たったのはあの男だった。籤引でこれとは一体どういう運命なのだろうか。俺があいつの顔をちら、と見ると目があった。暫くあの鉄色の目で見つめた後逸らされた。俺の事を覚えていないのだろう。
勝負の結果は結論から言うと俺の白星だった。割りと早く決着が着いた。もう少し粘るかと思ったが案外潔い男だ。結局手合わせは俺の部隊の勝利で終わった。解散した後あの男ともこれでお別れだと思っていた矢先、あの男が物凄い形相でこちらにやって来た。
鬼を殺すかのような気迫に圧倒されそうになりながらもそれを顔には出さない。
「おいお前!」
「は、はあ……」
童子切安綱、とかいう名前だったな。」
「……君は」
大包平だ!さっき紹介しただろう!」
「あ、大包平くんね……」
ものすごく声がでかいし顔も近い。随分表情豊かだがあの時と別人過ぎないか?大包平と名乗った男は俺の頭のてっぺんから爪先まで見回した。
「お前、中々に強いのだな」
「そうかな」
「そうだ!この大包平を下したのだぞ!もっと自信を持て!」
「は、はあ」
こいつ、こんなキャラだったのか。
「俺は昔から何事にも努力を欠かしてこなかった」
「努力さえすれば大抵のものは手に入ったからだ。だからここでも努力を怠らなければ俺は強くなれると思っていた。実際鍛錬のおかげで手合わせでは無敗だった。お前に敗れるまではな。」
「………」
「俺はこの"大包平"という刀の歴史を知っている。"童子切安綱"と並び立ち日本刀最高傑作の太刀だと。まさに俺の生き様を表したかのようで俺に相応しい刀なのだ。
しかし童子切に比べて華々しい経歴や逸話がない。確かに大事にされてきた刀ではあるが俺は"お前"のように何者にも負けないような強さが欲しいのだ!」
「へえー…」
「俺が強くなるにはまず俺よりも強いやつを倒すということが最優先だ!!!だから、童子切安綱!お前を倒す!」
「倒す、とか言われても困るんだが……」
「何故だ?お前も刀剣男士だ。俺というライバルがいて競争心が上がって鍛錬に益々身が入るだろう?」
刀剣男士といってもまだ数ヶ月。どことなくこの体と力に違和感があって自分が"童子切安綱"になったという実感が少ないのだ。ここに来る前は惰性のように毎日を過ごしていた。ここに来れば何かが変わると思ったのだ。しかし、未だに前と何かが変わったというようには思えなかった。
「安心しろ。お前は童子切安綱、この大包平がライバルと認めた男だ!!この大包平がいればお前の強さは保証される!!心配するな」
「という訳で、童子切!お前は絶対にこの大包平が倒す!また明日手合わせを挑みに来るからな!」
そう言い捨てて大包平は颯爽と去っていった。今日の明日じゃそう強くはならんだろう…と思いながら厄介なやつに目をつけられたなあ、と小さく溜め息をついた。